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小説『どうか心の片隅に』

 千夜にキスをした女子生徒が殺害された。千夜は殺人鬼、水上に事件の解決を頼まれるが…。
 設定を変更してアップし直しました。


『どうか心の片隅に』

プロローグ
 海戸千夜は授業で使ったテキストをプリントや文庫本が乱雑に詰め込まれた鞄に仕舞った。
 この創知学院は大手学習塾で、どの科目も三クラスに分かれている。入塾テストの成績でクラスが決まるのだが、千夜はどの科目もトップクラス。講師からも期待されている生徒だ。
 海戸千夜は恵まれている。
 皆が彼女の才能や容姿についてそう思っていた。
「あ、海戸さん」
 教室を出ようとした彼女に、別の高校の男子生徒が声をかけた。
「ん? ああ、内田君」
 内田拓海は英語と国語が同じクラスの、ここでは友人と呼べる相手だった。
 背が低く大人しそうな顔立ちに丸い眼鏡。チェック柄のブレザー姿の彼は、鞄からハードカバーの分厚い洋書を取り出す。
「この本、貸してくれてありがとう」
 それはアメリカで流行っているミステリー小説だが、まだ和訳はされていない。そのためミステリー好きの千夜がネットで取り寄せたものだ。
「ああ、どうだった?」
 千夜は微笑み、問いかける。
「凄く面白かったよ。あの、もし良かったら一緒に帰らない?」
「そうだね、同じ方向だっけ」
「うん、海戸さんより遠いけど」
「じゃあ、そこまで一緒に」
 二人が創知学院のある十階建てのビルを出ると、丁度目の前のバス停にバスが到着するところだった。
 時間はもう十時に近く、乗客は数人しかいない。
 二人がけの席を見付けると、後に降りる内田が窓側の席に座った。
「いやあ、まさか犯人があの人とは思わなかったよ」
 内田はまだ驚きが冷めないといったように胸を撫で下ろす。
「確かに意外な犯人だったよね。でも読み返すと伏線が張ってあってさ。例えばあのシーンで……」
 二人が話している中、バスは海辺にあるこの街を駆け抜けていく。
 住宅街に灯る明りはそれらの家に家庭があることを思わせた。
 家はただの箱ではない。人が住んでおり、それぞれの家庭が築かれている。
「僕には、人を殺す人間の気持ちは分からないや」
 内田は頭を掻き、小さく笑った。
「海戸さんは、人を殺す人間の気持ちを知りたいからミステリーを読むんだって言ってたよね」
「ああ、そういえばそんなことも話したっけ」
「うん、でも難しいね。どんなに相手を憎んでも、やっぱり怖くて殺せないと思う」
「そっか、内田君は優しいね」
 千夜は微笑み、アナウンスが「次は晴常高校前」と告げているのに気付き、降車ボタンを押した。
「私は次で降りるね。内田君も面白いミステリー見付けたら教えてよ」
 バスがスピードを緩め始めると、千夜は立ち上がる。
「うん!」
「じゃあね」
 手を振り、バスを降りた千夜は息をついた。
「人を殺す人間の気持ちは分からない、か」
 そう呟き、夜道を歩き出す。
 千夜が住んでいるマンションはここから十分ほどの所にある。
 晴常高校の前を通り過ぎると、街路樹の向こうに公園がある程度。車道を走る車も少ない。
 女子高生が一人で歩くには危ない道と言えるだろう。
 だが、千夜は特に恐怖を抱くこともない。
 なにせ週に三回、同じ時間にこの道を通っているのだ。
 しかしその日はいつもと違った。絹を引き裂くような音がしたのだ。
「何だろ」
 公園の方から聞こえたそれが気になった千夜は立ち止まり、そちらに目をやった。
 暗くてよく分からないが、街路樹の隙間から見える広場には男が立っているように見える。
 その時、車のライトで広場が照らし出された。
「っ!」
 白いジャケットを着た茶髪の男。その足元に制服姿の少女が倒れている。
 その喉からは、血が溢れていた。
 男が、しっかりとこちらを見る。
 暗く深い、殺意を孕んだ瞳と目が合った。
 千夜はすぐに駆け出した。
 鞄を抱きしめ、必死で走る。自分が住むマンションを目指した。
 二十階建ての高級マンション、そこに辿り着くとエントランスで自らの部屋番号を入力し、中に駆け込む。
 エレベーターはすぐに下りてきた。乗り込み、十二階のボタンを押す。
 ――もし、もしも。
 エレベーターの扉が開いた時、殺人鬼が立っていたら……。
 首を振り、そんなホラーじみた妄想を打ち消す。
 扉が開く。――目の前には廊下が伸びているだけだ。
 1207号室の前で鍵を探す。財布に入れていたそれを震える手で取り、開錠した。
 ドアを開け、玄関の電気を点ける。
 殺人鬼がリビングで待ち構えていることもなく、ほっとした千夜はソファに体を沈めた。
「そうだ、警察」
 スマートフォンを手に取る千夜。
「いや……」
 だが、彼女はぽとりとそれをソファに落とした。
「それじゃあ、つまらない」
 あの男の目、あれは普通の人間のものとは違った。
 本物の、殺人鬼の目だった。
 ――見てみたい、あの男の末路を……。
 警察に捕まるのは、まだ早い。
 千夜は息をつき、両手で顔を覆った。
「私も……、したい」
 もう一度、今度ははっきりと繰り返す。
「私も、殺したい」



第一章
 混雑した駅のホームで、千夜は前に立つ男の背中を見つめていた。
 スーツ姿のその男は、無防備な背中を晒している。
 ――今なら、この男を殺せる……。
 千夜はごくりと唾を飲み込んだ。
 周りの人間たちはスマートフォンをいじっていたり文庫本を読んでいたり、と他人に興味はないらしい。
 絶好のチャンスと言えた。憎い男を殺す、チャンスだ。
 千夜は大きく息を吸い込んだ。
「電車が参ります、ご注意ください」
 そのアナウンスを聞きながら、息を吐き出す。
 あと何秒だろう。この男の命の火が尽きるまで。
 電車が見えた。
 千夜は思い切り手を突き出した。
 男は背中を押され、バランスを崩す。ホームに留まろうとするが足は絡まり、死へのステップを踏む。
 電車のブレーキ音を聞きながら、千夜は背を向けた。
 ――ああ、やっとあんたを殺せた。

「ん……」
 千夜はベッドで目を覚ました。
「ああ、夢かあ」
 体を起こし、息をつく。
「嫌な夢」
 まだ掌に、あの男の背中の感触が残っているようだ。
 千夜の部屋にはベッドや机の他に本棚がある。
 本棚には様々な本が詰め込まれていた。
 ミステリー小説が多いが、中には高校生が読むとは思えない専門書も収まっている。
 彼女の成績がトップクラスなのは、それらから得た知識のおかげと言えるだろう。
 千夜はピンク色のパジャマ姿のまま洗面所に向かう。
 顔を洗ってさっぱりすると、リビングでテレビを点け、コンビニの菓子パンの封を開けた。
 特に料理をすることのない千夜には、真新しいダイニングキッチンは無用の長物だろう。
 パンにコーティングされたチョコレートの香りで、頭が覚醒していく。
 それを齧りながらテレビに目をやると、昨夜通った道が映っていた。
「あ」
 やはりあの公園で女子高生が殺害されていたらしい。
 千夜はワイドショーに集中した。
 コメンテイターが「『現代の切り裂きジャック』でしょうか」などと話している。
「現代の切り裂きジャック、かあ……」
 それはここ最近話題になっている殺人鬼だ。マスコミによると被害者――この一ヶ月で三人、昨夜で四人目だ――が全員売春をしていたらしく、週刊誌やワイドショーでは犯人のことを現代の切り裂きジャックと呼んでいる。
「死体蹴りだよな」
 被害者は私生活を暴かれ、ネットでは殺されて当然の売女扱いをされている。
「ま、いいけど」
 千夜は肩を竦めて残ったパンを口に詰め込み、ハンガーに掛けていた制服を取った。
 それに着替え、三年生であることを示す赤いネクタイを締める。
「さ、そろそろ行かなきゃ」
 千夜は通学鞄を手に取り、専門家らしき男が現代の切り裂きジャックのプロファイリングをしているのを見て、テレビを消した。
「あれは二十代後半、かな」
 昨日の男を思い出し、小さく呟く。
 玄関に向かう千夜には「行ってきます」を言う相手がいない。
 去年母が他界し、その位牌も田舎に住む祖父の家にある。
 千夜は何も言わずドアに鍵をかけると、エレベーターに向かった。

 マンションから歩いて二十分ほどの所にある晴常高校。その校門付近は生徒たちで賑わっている。
 八時を少し過ぎた今は、朝練などのない生徒たちが登校してくる時間だった。
「もう来てるかな」
 千夜は呟き、南校舎の階段を上がる。
 三年一組の教室に入ると、クラスメートは半数以上来ており、思い思いの話に興じている。
「おう、おはよー、千夜」
 千夜に気付いた風切が、軽く手を上げた。
「おはよー」
 千夜も手を上げながら席に着いた。
「さっきからお前の話してたんだぜ」
 秋葉の言葉に千夜は目を瞬かせる。
「え、何で?」
「昨日殺人事件があっただろ、お前のマンションの近くで」
 千夜は風切の言葉を聞いて、「ああ」と声を上げた。
「あれね、今朝ワイドショーで見たよ。現代の切り裂きジャックかとか言ってたけど」
「千夜は大丈夫なのか? 塾の帰り、遅くなるんじゃねえの?」
 風切は彼女である千夜を本気で心配している様子だった。
「まあ、私は売春とかしてないから狙われないかなー」
「いや! 俺は危ないこと全般について言っただけで、お前が売春してるとかは思ってねえからな!」
「ふふ、慌てる風切君可愛い」
「歪んでる!」
「お前らって何だかんだでいいカップルだよな」
 秋葉そんな二人を見てけらけらと笑った。

 六時間目の授業が終わり、千夜は「うーん」と伸びをする。
「この後どうするかなー」
 六時間目は選択授業で、音楽の授業を取っている千夜は特に話し相手もいない。ちなみに秋葉と風切は美術の授業を取っている。
 荷物は持ってきているので教室に戻る必要もない千夜は、このまま帰ることにした。
 音楽室のように普段使わない教室は北校舎にある。千夜は三階から階段を下りていった。
「ん?」
 踊り場で蹲っている女子がいるのに気付く。
「大丈夫?」
 千夜は階段を駆け下り、彼女に声をかけた。
 こちらを向いた少女の顔は、紙のように白い。
「顔色悪いよ、保健室行く?」
「大……、丈夫……」
 掠れた声で返す彼女は、話したことはないがクラスメートだった。
「えっと、香川さんだよね」
 確か、香川弓子だったはずだ。
「ええ、海戸さん」
 弓子は弱々しく微笑む。
「ちょっと貧血を起こしただけだから、気にしないで。ありがとう」
 本人がそう言うのなら、千夜が強制することではない。
「じゃあ、お大事に……」
 千夜はそう言ってまた階段を下りていった。
 しかし、どうも彼女のことが気にかかる。
 普段あまり他人のことを気にしない千夜だが、何故か気になった。
「仕方ないなあ……」
 千夜は手洗い場に入ると、ポケットから取り出した水色のハンカチを濡らした。
 そして、先程の踊り場に戻る。
「お節介かもしれないけど、これ額に当てたら少しすっきりするかもよ」
 千夜はまだ蹲っていた弓子にハンカチを差し出した。
 弓子は目を瞬かせると、
「ありがとう」
 と言ってそれを受け取り、額に当てた。
「気にしないで」
 千夜はしゃがみ込み、弓子の頬に触れた。
「熱っぽくはないね。やっぱ貧血か」
「ええ」
 弓子は長い黒髪を揺らし、頷いた。純和風美少女といった感じである。
「海戸さん」
「ん、何?」
 何が起こったのか、一瞬分からなかった。
 弓子の顔が近付き、唇が千夜のそれに触れる。
 さすがの千夜も、反応ができなかった。
「ごめんなさい」
 弓子は真剣な顔でそう言うと、ふらつきながら立ち上がった。
 千夜は、言葉を返せない。
「本当に、ごめんなさい」
 弓子はもう一度謝罪すると、ゆっくりとだが階段を上がっていった。
「いや、うん……」
 弓子の姿が二階に消えてから、千夜は唇を押さえた。
「アメリカ人の、挨拶的な?」
 ――じゃ、ないか……。
 弓子の表情は真剣そのものだった。
 あれは、純粋な好意からくる口付けに思えた。
「うーん……?」
 千夜は背中を壁に預け、その場に座り込む。
「最近の子の行動は、よく分からんなあ」
 そう呟き、溜め息をついた。
 ハンカチのことなど、すっかり忘れていた。

 翌日、教室に入った千夜は妙な雰囲気を感じ取った。
 生徒たちはどこか深刻な顔をし、声を落として喋っている。
 その様子に千夜は首を傾げ、先に来ていた二人の元に駆け寄った。
「ねえ、何かあったの?」
「なあ、千夜は香川と喋ったことあったか?」
 秋葉がいつもより小さな声で尋ねる。
「香川さん、か……。昨日ちょっと話したよ」
 キスされたとはさすがに言えない。
「昨日、亡くなったって」
 風切の言葉に、千夜は目を瞬かせた。
「そういや具合悪そうだったけど、病気?」
「いや、殺された、らしい」
「ええ、殺されたって……」
「俺、今日日直だったから職員室行ったんだけど、東尾が話してた。なんか、酷い有様だったって……」
 顔を顰める風切に、千夜は「そっかあ……」と言葉を返す。
 クラスを支配する重い空気はそのせいらしい。ただ死んだのではなく殺された。
 ついこの間教師が殺されるという事件もあったが、クラスメートが殺されたとなるとまた別だ。
 しかし、涙を零している者はいなかった。彼女はクラスに友人というほどの者がいなかったのかもしれない。
 千夜自身、悲しいというより驚いたという気持ちの方が強かった。

 その日の放課後、弓子の通夜が行われた。
 学校の近くの葬儀場で行われた通夜には制服で行くのが好ましいとのことで、ほとんどの生徒たちがそのまま来ている。千夜たちもそうだ。
 前方のパイプ椅子には親類であろう大人たちが、後方には三年一組の生徒や教師たちが座っている。
 ――お母さんのお通夜を思い出すな。
 千夜はふと思った。
 母の通夜や葬儀は祖父に任せきりで、千夜はただぼんやりとその光景を眺めているしかできなかった。
 ――でも、あの時ってこんな感じだったっけ。
 母の通夜ではすすり泣く声が聞こえてきた気がするが、今はただ読経の声が響くだけだ。
 どこかピリピリした空気すら感じ、千夜は居心地の悪さを覚えた。
 焼香の順番も淡々と過ぎて行き、通夜は終了する。
 黒い額縁の中で静かに微笑んでいる弓子が、印象的だった。
 千夜は自らの唇を撫でる。
 ――結局、あの時のキスの意味は分からず終い、か。
「この後、どうすんだ?」
 少しボーッとしていたところを風切に声をかけられ、我に返った千夜はパイプ椅子から立ち上がった。
「ああ、どうしようか」
「とりあえずここ、出ようぜ」
 秋葉も居心地の悪さを感じていたのかもしれない。
「うん」
 葬儀場を出ようとして千夜は足を止めた。
「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくる」
 そう告げ、廊下を戻る。手洗い場は会場を曲がった所にあったはずだ。
 角を曲がろうとした時「何でこんなことに」という声が聞こえ、千夜は足を止めた。
「私だって分からないわ」
 続く言葉からも深刻な話のようで、姿を現しづらくなった千夜はこっそりと覗くことにした。
 声の主は喪服姿の弓子の両親だ。
 ――香川さんのこと、悲しんでるのかな。
 通夜の席では気丈に振る舞い、涙を見せなかっただけかもしれない。
「あの子が妊娠してたなんて」
 神経質そうな顔立ちの母親の言葉に、千夜は上げそうになった声をなんとか飲み込んだ。
「こんなこと、我が家の恥だぞ。親戚連中も内心笑ってる」
 生真面目そうな父親が、ぎりっと奥歯を噛み締める。
「本当に、あの子は何を考えてたのかしら。死んでまで迷惑をかけて」
 そこまで聞いていた千夜はいたたまれなくなり、手洗い場には行かずに友人たちの元へと戻った。
「立ち止まってたけど、どうしたんだ?」
 長い廊下だ、風切たちに声は聞こえなかったのだろう。
「いや、やっぱり今はいいやと思って」
 千夜は取り繕うようにそう言った。
「そうか? とりあえずファミレスでも寄ってく?」
「うん」
 秋葉の言葉に千夜は頷いた。

 ファミレスで夕飯を済ませた千夜は帰路についた。
 一人で帰るのは少し考えたかったからだ、弓子のことについて。
 両親の言っていた通り、弓子は妊娠していたのだろう。あの時貧血と言っていたのは、つわりだったのだ。
 ――でも、誰の……。
 考え込んでいた千夜は、後ろから男がつけてくるのに気が付いていなかった。殺人鬼のことなど、半ば忘れていた。
「警察に通報しないでくれてありがとう」
 後ろからの声に、千夜ははっとする。
「貴方は……」
 街灯に照らされた茶髪に白いジャケット、そしてこちらを見つめる暗い瞳。
 ――あの時の、殺人鬼……。
 千夜はとっさに走り出そうとした。
 だが、殺人鬼の手が千夜の腕を掴み、強い力で引き寄せる。
 後ろから抱き締めるようにして、彼はその耳元で囁く。
「やっと会えたね、千夜」
「何で、名前……」
 千夜は掠れた声で問いかける。
 だが、殺人鬼はその問いには答えない。
「俺の名前は水上圭。現代の切り裂きジャックってやつだ。よろしく」
 その優しい声音が、不気味に響く。
「俺と君はもうお友達だよ。君は俺のことを警察に通報しなかった。それに……」
 水上はニヤリと笑った。
「君だって、人を殺したいんだろう?」
 千夜の体が固まる。蛇に睨まれた蛙のように。
「そんな、ことは……」
「分かるんだよ、目を見れば。君だって俺の目を見て感じただろう? 殺意とか狂気とか、普通の人間とは違うものを」
 確かに、その目に深い闇が見えるのは事実だ。
 千夜は気圧されたように一歩下がった。
「私は、まだ……」
「ああ、君はまだ殺していない。それに迷ってる。だけどいつか、こちら側に来る」
 水上は一歩、足を踏み出す。
 千夜は退かなかった。だが、彼の瞳からは目を逸らす。
「そうやって目を逸らしていたら、自覚しないまま飲まれてしまうよ、闇に」
 水上は千夜の顎を掴み、自分の目を見つめさせる。
 千夜はされるがまま、目を閉じることもしなかった。
「そう、それでいい」
「どうしたいんですか、貴方は……」
 千夜の声は、もう震えていなかった。
「一つ、頼みがあってね」
 水上は微笑んだ。
「俺の濡れ衣を晴らしてくれないかい?」
「濡れ衣?」
「そう、君のクラスメート、香川弓子殺しの濡れ衣をね」
 千夜はその名前にピクリと反応する。
「まだ発表はされてないけど、警察はあの事件も俺がやったと思ってるようでね。なんせ手口が似てるからな。でも、その子だけはやってないんだよ。俺が殺すのは売春してる子だけだからね、現代の切り裂きジャックだし」
「何で私に頼むんですか? 私はただの女子高生ですよ」
「そうだな、君が俺のことを通報しなかったのと同じじゃないかな」
「え?」
「事件を解決した君が、どうなるのか見たい」
 しれっとそう言われても納得がいかない。
 だが、千夜は弓子が殺された理由を知りたかった。
「分かりました、やります」
 千夜は水上の目をまっすぐに見つめた。
「ありがとう、、俺はそろそろ行くよ。あんまりのんびりもしていられなくてね」
 水上は千夜に背を向けると、片手を上げた。別れの挨拶のつもりらしい。
 千夜は息をついた。
 ただ、理由が知りたい。
 彼女が死んだ、理由が。
 それがただの好奇心なのか、また別のものなのかは分からない。
「とにかく、帰ろう」
 千夜は小走りでマンションに向かった。



第二章
 翌朝の教室は、昨日とは違った意味でざわついていた。
「香川、妊娠してたんだって」
 そんな話が耳に入り、千夜は溜め息をついた。
「おはよ、なんか変な噂が広まってない?」
「あー、なんか一年のやつが産婦人科に入っていく香川を見たとかで」
 秋葉が肩を竦め、
「でも、全然驚いてない辺り千夜も知ってたんじゃないのか?」
 と、問いかける。
「お通夜の後、香川さんのご両親が話してるの聞いた」
「じゃあマジなんだな」
 風切は「うーん」と腕を組む。
「犯人は二人殺したようなもんだよな、ひでえ話。今回のも現代の切り裂きジャックなのか?」
「違う」
 千夜は思わず断言してしまい、取り繕うように付け加えた。
「と、思う」
 キョトンとしている二人に対して、
「ほら、香川さんって売春とかしてるように見えなかったし」
 と言った。
「ま、確かにそうだよな」
「しかし千夜にしては珍しいな。お前、基本的に他人には興味ないのに」
 秋葉に言われ、千夜は苦笑する。
「ま、こういうこともあるさ」
 そして、ふと思った。
 ――情報収集なら、やっぱ『あそこ』が一番かな。

 放課後、漫画研究部にやって来た千夜。
 たまにはと思いノックをすると、「やばい、隠して!」という声の後に「はーい」と返事が返ってくる。
 ――何を隠してるんだか。
 千夜は苦笑した。
「やあ、元気?」
「あ、海戸せんぱーい! どうしたんですか?」
 るるが嬉しそうに立ち上がる。
「安本さんたちにちょっと訊きたいことがあってね」
「はい! この安本るる、海戸先輩のためなら何でも答えちゃいますよ!」
 彼女は敬礼をし、瞳はやれやれと肩を竦め、リナ困ったように微笑む。
「先輩は何が知りたいんですか?」
「殺された香川さんのこと。わけあって真相を知りたくてね。教えてくれないかな?」
 そしてまた男が女を口説くように、るるへと顔を近付けた。
 するとるるは「はい!」と嬉しそうに声を上げ、瞳とリナの方を向いた。
「三年一組のファイルってどこだっけ、瞳ー」
「三年生のはここ。はい」
 瞳からファイルを受け取ったるるに、千夜は問いかける。
「彼女の交友関係とかは?」
「えっと、クラスに友達とかはいなかったみたいですよ」
 千夜は納得する。クラスメートたちの他人事のような反応はそのせいだったのだろう。
「クラス外には?」
「香川先輩は図書委員だったから、その絡みはあるみたいですね。三年五組の多田先輩が香川先輩に告白したとかなんとか」
「告白? 結果は?」
「玉砕ですよー。好きな人がいるからって断られたらしいです」
「ふむ」
 千夜は頷く。
「あ、あの、あと……」
 リナがおずおずと口を開く。
「生物室によく通ってたみたいです……。きっと生物が好きだったんですね……」
「生物が好きとは限らないわよ?」
 るるがにっと笑う。
「生物教師が好きだったって可能性はあるわね。国本とか趣味悪過ぎだけど」
 瞳が呆れたように言い放つ。
 生物教師、国本忠司の授業は千夜も受けている。どこか暗い感じのある四十代男性で、あまり生徒に好かれている様子はない。
「あたしたちが知ってるのはこれくらいですね」
「そっか、ありがとう。ちなみに彼女は妊娠してたわけだけど、心当たりとかある?」
「いやー、さすがにそれは。でも……」
 るるは言葉を切った。
「売春してたって話は聞いたことないから、恋人とかそういう相手の子供なんじゃないですか?」
「なるほど、ありがとう」
 千夜は三人に、「じゃあね」と手を振り部室を出た。
「とりあえずは図書委員の多田君、それと国本先生、か」
 そう呟き、塾に行くため学校前のバス停に向かった。

 そして次の日、放課後になると千夜は図書室にやってきた。
 カウンターに座っているのは二人、男子生徒と二年であることを表す黄色のネクタイをした女子生徒だ。
 千夜はすたすたと歩み寄ると、声を落として尋ねた。
「多田君いる?」
 男子生徒が溜め息をつき、「俺だけど」と答える。
「俺が多田浩太。何の用だ?」
「香川さんのことについて訊きたいんだけど」
「またですかあ?」
 隣に座っていた女子生徒が、嫌悪感を剥き出しにして唸る。
「え、なになに? またってどういうこと? というか、君は?」
 女子生徒の剣幕に驚き、千夜は一歩下がった。
「あたしは鈴原ルカです。もう十人目ですよ! 多田先輩にそのこと聞きに来たの!」
 眼鏡に三つ編みという地味な外見だが、なかなか気が強いらしい。腰に手を当てて立ち上がり、千夜を睨み付ける。
「多田先輩だって傷付いてるんですから、好奇心でそういうことを訊きに来るのはやめてもらえませんか!」
「まあまあ」
 多田の方が苦笑し、ルカを宥める。
「まあまあじゃないですよ、先輩! ムカつかないんですか?」
「まあまあ、図書室では静かに、ね?」
 千夜が人差し指を唇に当てニヤリと笑うと、ルカは更にきつく睨んだ。
「えっと、海戸だよな、三年一組の」
 多田に訊かれ、千夜は首を傾げる。
「そうだけど、何で知ってるの?」
「色んな意味で有名人だし、お前」
「へえ」
 あえて突っ込むことはせず、曖昧に笑った。
「お前はさ、好奇心とかで来たんじゃないんだろ? なんとなくだけど」
「うん、まあ。――多分」
「多分って何だよ」
 多田は「ははは」と笑うと、ルカの肩を叩いた。
「悪い、ちょっと出てくるから、しばらく一人で頼むわ」
「いいですけど……」
 ルカは釈然としない様子ながらも渋々頷く。
「どこで話す?」
「この時間なら食堂とか?」
「オーケー、手短に頼むな」
 二人は図書室を出る。ルカはその背中を見送ると、「もう!」と腕を組んだ。

 人がほとんどいない食堂で、二人は缶ジュースを手に話を始めた。
「香川さんに告白したって、ほんと?」
 直球だが、手短にと頼んだのは多田の方だ。千夜は問いかける。
 多田は気を悪くした様子もなく頷く。
「ああ、三ヶ月ぐらい前かな。図書室で誰もいなかったから、告白した。――ま、見事玉砕だったけどな。他に好きな人がいるからって」
「そっか」
 漫研の情報は確かだったらしい。
「好きな人が誰かは、言ってた?」
「いや、そこまでは。あ、でも……」
「うん?」
「きっと結ばれない相手だって、言ってた」
 多田は少し淋しそうに目を伏せる。
「なあ、あいつ、妊娠してたんだろ?」
「うん、そうらしいね」
「じゃあ、その好きな人とは結ばれたのかな? 誰の子供だったんだ……」
「私もそこまでは知らない」
「十人目だって、鈴原が言ったよな」
「ん? ああ」
 多田が苦笑した。
「中にはさ、俺が父親じゃないかって言うやつもいるんだよ。玉砕したから、そのままレイプしたんじゃないかって」
 ルカがピリピリしていたのは、そんなことを言ってくる輩がいたかららしい。
「それは、酷いね」
「ま、そう思いたくなってもしゃーないよな。みんな動揺してんだよ」
 こうして話していると、彼はとても弓子を強姦するような人間には思えない。更に、人を殺せるようには見えなかった。
「じゃ、俺はそろそろ行くな。あいつ一人にしとくのも心配だし」
「ああ、うん。ありがとう」
 千夜はその背中を見送ると、多田の言葉を整理する。
「結ばれない相手、か」
 ――家族、同性、教師……。
「あのキスは、好意の証とかじゃないよな」
 結ばれない想い人に自分も当てはまる可能性はある。
 しかし、千夜は自分が弓子に想われる覚えがない。
 何より、彼女を妊娠されることなど不可能だ。
「キスして妊娠なんて、今時子供でも信じないよ」
 そして、問題はもう一つある。
 子供の父親と犯人が、同一人物なのか否かということだ。
「同じと考えるのも、ちょっと軽率か……」
 千夜は「うーん」と唸った。

 生物室は北校舎の二階にある。
 千夜は誰もいないその教室で、窓から見える中庭をぼんやりと見ていた。
「ここに、香川さんがよく出入りしてた、か」
 ――何のために?
 るるたちが言っていたように、国本に想いを寄せていたのだろうか?
 中庭では吹奏楽部の練習が行われている。
 ――私は、何をしてるんだろう。
 塾に通っているのは惰性で、弓子の事件を追っているのは、殺人鬼に頼まれたからで……。
「いや、でも……」
 千夜は首を振る。
 ――夢や目標とは違うけど、私には私なりのビジョンがある。
 かり、と人差し指の関節を噛んだ。
 その時、生物室の戸が開く音がした。
「何をしてるんだ」
 はっと振り返ると、白衣姿の国本がどこか虚ろな目で千夜を見つめていた。
「あ、先生。すみません、少しぼーっとしてました」
 教師からの信頼を得ている千夜だからか、国本は特に疑う様子もなく「そうか」と言った。
「そろそろ帰ったらどうかね。最近は物騒だ」
 そう言いながら、彼は生物室のカーテンを閉めていく。
「はい、そうします」
 千夜は微笑んで歩き出し、ふと足を止めた。
「香川さん」
 その名前を口に出すと、国本の動きがピタリと止まった。
「――が、よく生物室に出入りしてたって聞いたんですけど、彼女、生物が好きだったんですね」
 あえてとぼけたことを言って振り返り、国本の様子を伺う。
 どんな反応を見せるかと思ってしたことだったが、結果は意外なものだった。
 千夜の方を見た彼の目から、涙が一筋溢れた。
「え?」
「香川君……、いや、弓子の」
 国本はポケットから水色のハンカチを取り出し、目元を拭う。
「お腹の子の父親は、私かもしれない」
 その告白に、千夜は息を飲む。
「愛し合っていたんだ、私たちは」
「何で、それを私に?」
「君は口が軽いようには見えない。誰かに、知ってもらいたかったんだ。私と弓子の間に、愛が存在したことを」
「はあ……」
 それ以上踏み込むことができず、千夜は「失礼しました」と言って生物室を出た。
 どこか国本に、恐怖を感じたのだ。
 ――知ってもらいたかったって、何だよ……。
「愛し合っていたなら、殺す必要はない、か……?」
 そう考えると、子供の父親と弓子殺害の犯人は別ということになる。
 しかし、国本の言葉を丸々信じることもできなかった。
「そもそも、何で腹を裂いたんだ」
 それに関しては、思い付くことがいくつかあった。
 現代の切り裂きジャックの犯行に見せかけるため、とか。
 弓子のことが憎かったから、惨たらしく殺したかった、とか。
 ――あと、もう一つ……。
「いや、それはいくら何でも、狂ってる……」
 千夜は頭を振った。
 ――いけない、いけない……。
 殺人犯のことを考え過ぎて、侵食されそうだった。
 殺意は、伝染するのかもしれない。
「怖い……」
 自分の中の殺意が、暴走しそうになる。
「は、は……」
 千夜は踊り場で蹲った。
 まるで、あの時の弓子のようだ。
 ――殺したい。私も、殺したい。
「あの、男を……」
「千夜?」
 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
「どうしたんだ、気分悪いのか?」
 風切が、心配そうに千夜の顔を覗き込んでいた。
「いや……、大丈夫」
 不快な感覚が収まっていき、千夜は息をついた。
「君こそ、どうしたの?」
 少し無理にだが、笑ってみせる。
「いや、お前を探してたんだよ。こっち来たって聞いたし」
 風切はチケットを二枚ポケットから取り出した。
「昨日、バイト先の先輩が水族館のチケットくれてさ。それで、日曜日に一緒に行かねえかと思って」
「水族館?」
 前に話したことがある。海の生き物が好きだと。
 千夜はどこか小悪魔的な笑みを浮かべた。
「それは、デートのお誘いだよね?」
「ま、まあな!」
 顔を赤くする風切を見て、千夜は「ふふふ」と声を上げた。
「日曜日、楽しみにしてる」

 その後、千夜はバスで十分ほどの所にある商店街にやってきた。
 そして二階建てのビルに入り、階段を上る。
「こんにちはー」
 『海戸探偵事務所』と書かれたプレートが貼ってあるドアを開け、声をかけるとデスクで煙草を吸っていた男がそちらを向いた。
「おー、千夜か。どした?」
 黒い帽子にサングラス、同じく黒のスーツをだらしなく着こなし、カールした肩までの黒髪というどこか胡散臭い男は、千夜の叔父で探偵の海戸十夜だ。
 千夜は応接用のソファに座ると、
「クラスメートが殺された事件のことなんだけどさ」
 と、口にする。
「ああ、現代の切り裂きジャックのやつな」
 どうやら海戸もあの事件は水上の犯行だと思っているらしい。
「うん。その関係で、おじさんに頼みたいことがあるんだけど」
「ん、何だ?」
「被害者の香川さんの中学時代のこと、調べてくれない?」
 海戸はきょとんと間抜けな顔をしたあと、眉間に皺を寄せた。
「お前、まさか探偵の真似事か?」
「そんなとこかな。頼まれちゃって」
「誰に頼まれたんだ。そういうのは警察か本職の探偵に任せとけ」
 誰にと訊かれても、現代の切り裂きジャックとはさすがに答えられない。
 ――殺人鬼に仲間扱いされたなんて、言えるわけないし。
「真剣に頼まれたから断りづらくて。お願い、おじさん! 危ないことはしないから!」
 千夜が手を合わせ、海戸に頼み込む。
「絶対、危ないことはすんなよ。調べるだけはしてやるから」
 頼まれると断れないのは血筋なのか、姪に甘くしてしまう叔父の性なのか、彼は渋々了承した。



第三章
 日曜日、電車で一駅のところにある水族館で風切は待っていた。
「やあ、風切君」
 時間ぴったりにやってきた千夜は白いワンピースという清楚な服装。制服とは違うその姿に、風切は鼓動が高鳴るのを感じた。
「おう」
「待った?」
「いや、今来たところだ」
 実際は三十分前についていたのである。
「そっか、じゃあ入ろうか」
 中に入ると、最初に大小様々な魚が泳ぐ大水槽がある。
 薄暗い館内で青い光を放つ水槽は、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「これ好きなんだよね。凄くきれい!」
 千夜はそれを見ると目を輝かせる。
「ああ、きれいだよな」
「鮫もいるよ、おっきいねー」
 子供のようにはしゃぐ千夜に、風切は小さく笑ってしまう。
「この間の映画思い出すなー。あれは笑っちゃった」
「ゾンビ鮫ハンターな。笑いどころあったか?」
「え、ゾンビ鮫のボスを主人公がチェーンソーでぶった切るところとか最高だったじゃん」
「お、おう、そうか……」
 そんな調子で、なかなかロマンチックな雰囲気にはならない二人。
「次はクラゲ見たいなー」
 千夜は館内の奥にあるクラゲのコーナーへと駆けていく。
「おーい、走んなって」
「はーい」
 千夜がくるりと振り返ると、ワンピースの裾がふわりと広がった。
 その後ろには光の中を揺らめくクラゲがいて、どこか不思議な光景に風切は不安になった。
 まるで千夜が、同じ次元の生き物ではないようで。
 このまま、自分の前から姿を消してしまいそうで……。
 風切がその手を掴もうとした時、後ろから「あっ」と声がした。
「ん?」
 聞き覚えのある声に千夜がそちらに目をやると、ルカがこちらを見ている。
 眼鏡はそのままだが、解かれた長い黒髪がウェーブしている。花柄のワンピースが似合っており、学校で会った時と違う印象だ。
「誰?」
「図書委員の子」
「鈴村ルカです」
 ルカはじっとりとした目で二人を見る。
「デートですか? 先輩たちは」
「まあね。君もデートじゃないの? お洒落してるし」
「私の隣に誰か見えますか?」
「いや、相手がお手洗いにでも行ってるのかと」
「私は一人で来たんです」
 その態度から察するに、誰かと来ようとしたが断られたとかであろうか、と千夜は推理する。
「あの、海戸先輩」
 ルカは真剣な表情で千夜を見る。
「デート中申し訳ないんですが、ちょっといいですか?」
 尋ねられ、千夜はちらりと風切の方を向いた。
 彼は察したように腹を押さえると、
「俺、腹痛くなってきたからトイレに行ってくる!」
 と、駆け出していった。
 ――空気読めるなあ……。
 千夜は肩を竦め、「どうしたの?」と尋ねた。
「海戸先輩は、何のために香川先輩のことを調べてるんですか?」
「ある人に頼まれて、とか?」
 そう言いながら、ルカの鋭い視線から目を逸らす。
「自分の意思じゃ、ないんですか?」
「うーん、まあ」
 千夜が取り繕うように苦笑すると、ルカは苛立ったように拳を握り締めた。
「香川先輩は、貴女に憧れてました」
「え?」
「海戸先輩の貸し出しカードを見て、凄いって言ってたんです」
「凄い?」
「海戸さんはこんな難しい本を読んでて凄いとか、かっこいいとか、言ってました」
 千夜はどう返していいのか分からなかった。
 ――だから私に、何て言えっていうんだ。
 その言葉を飲み込んで、千夜は「そっか」とだけ言った。
「先輩が自分の意思で犯人探しをしてくれてるなら、少しだけ嬉しいと思ってました。――でも、人に頼まれたからだったんですね」
 ルカは肩を落とし、
「香川先輩が、かわいそう」
 と、言ってから首を振った。
「すみません、先輩を責めるつもりはなかったんです」
「いいよ、気にしないで」
「わ、私、もう行きます。デートの邪魔をしてすみませんでした」
 ルカはワンピースの裾を翻し、駆けていった。
 千夜は頬を掻き、溜め息をついた。
 ――憧れてたって言われても……。
「そんな人間じゃないよ、私は」
「もう話、終わったか?」
 その声に振り返る。風切が戻ってきたのだ。
「ああ、うん。終わった」
「そっか」
 風切は「あ、これ」と言って売店の小袋を千夜に渡す。
「ん、なに?」
「いや、クラゲ好きみてえだから」
 開けてみると、クラゲのキーホルダーが入っていた。プラスチック製で青く透き通っており、千夜好みのものだ。
「君も、こういうテクニック持ってたんだね」
「は?」
「いや、ありがとう。大事にするよ」
 千夜は微笑み、それをバッグに付けた。
 その後はペンギンを見たりイルカショーを見たり、と楽しい時を過ごした。
 そして自宅に帰ってきた千夜がソファに座ったのを見透かしたかのように、スマートフォンが着信を告げる。
「あ、おじさんか。もしもし」
 気持ちを切り替えた千夜はソファで足を組み、話を聞く。
「被害者の話だけどな、家族は母親と父親のみ。それで中学は……」
「え、結構遠いところに通ってたんだ。つか、中高一貫校じゃん。何でわざわざ晴常に……」
 海戸はそこで弓子が中学時代に起こした『問題行動』について語った。
 千夜はそれを聞いて気付く。
「だから、『死んでまで迷惑をかけて』だったのか」
 全てが、見えてきた気がした。

 その夜、千夜は夢を見た。
 じっとこちらを見ている少女がいる。
 ――香川さんだ。
 千夜はどこか後ろめたくて目を逸らした。
 ――私は、水上さんに頼まれて犯人探しをしてるだけなのに。
 それでも弓子は、ただ千夜を見つめている。
 ――香川さんがかわいそう、か……。
 ルカの言葉を思い出す。
「あんまりさあ、見ないでよ。私は君のために何かしてるわけじゃないんだ」
 突き放すような言葉を口にして、千夜は頭を掻いた。
「誰かのために、何かできるような人間じゃあないんだよ……」
 でも……。
 ――目を、逸らしてはいけない。
 水上はそう言った。闇に、飲まれると。
 そう、この弓子は千夜の中にある闇だ。
 目を逸らしたら、自覚しないまま闇に飲まれる。
 千夜は弓子に目をやった。
 きっと、助けを求めている人間はこういう目をするのだろう。
 ――あの時のキスは……。
 やっと、気付けた。
 ――君は、私に……。
 千夜は拳を握り締めた。
「大丈夫、この事件は、私が解決するから」

 月曜日の放課後、生物室での授業が終わると千夜は平静を装って立ち上がった。
 これから自分はきっと恐ろしいものを見ることになるのだろうと思いながら。
「あ、千夜」
 風切の声に振り返る。
「ん、何?」
「教室、戻らねえの? 荷物置いてきてるだろ」
 千夜はにっこりと笑った。
「先生に質問があるから、先に戻ってて」
「おう」
 生物室から生徒たちが出て行くと、千夜は教卓で教科書などをまとめている国本に声をかけた。
「先生、あの……」
「何かね」
「先日使っていたハンカチを返してください。あれは私が香川さんに貸したものです」
 国本は一瞬固まった。
 だが、ぎこちない笑顔を浮かべ、ポケットからハンカチを取り出す。
「ああ、君のだったのか。弓子に借りていてね……」
 千夜はそれを受け取り、息をついた。
「先生が香川さんと愛し合っていたというのは、嘘ですよね」
 国本の顔が、歪む。
「何を言っているんだ、私たちは確かに愛し合っていたんだよ。その証拠に……」
「香川さんは、同性愛者だったんです」
 千夜はそのまま言葉を続けた。
「中学時代、校内で女子生徒とキスしていたのを教師が見付けて、問題になったそうです」
「それは、中学生の時のことだろう。高校生にもなれば、それが間違いだったと分かる」
「同性愛を間違いと言っていいのかは知りませんが、彼女は私にキスをしました。それが、彼女が今も女性を愛している証拠です。愛し合っていたというのは、先生の嘘か妄想……」
 国本は千夜の腕を掴んだ。そして引きずるように準備室へ押し込む。
「わっ!」
 床に尻餅をついた千夜を見下ろす国本。
「君に見せてあげよう。私と弓子の愛の結晶を」
 準備室にはホルマリン漬けの生物標本が置いてある。
 国本はその一つを取ると、千夜に見えるよう目の高さに下げた。
 ――胎児だ……。
 彼が弓子の腹を裂いたのは、胎児を取り出すためだったのだ。
 ――やっぱり、そうだったのか。
「この子が、私と弓子の愛の証だ!」
 国本は狂ったように笑う。
「彼女はこの子を堕ろすと言ったから殺した。そして、この子を『保存』した。――いやいや、しかし何故彼女が私を拒んだのかと思ったが、そうか、君が彼女を、唆したのか」
「唆した?」
 千夜は国本を睨み付ける。
「彼女は、助けを求めていたんです! 貴方に犯されて妊娠しても、両親には言えない。一人で抱え込んで……、それが、あのキスだったんだ」
 今思えば、弓子はすがるような目をしていた。助けを求めていたのだ、他ならぬ自分が憧憬を覚えた千夜に。
「それこそ、妄想だ!」
「確かに、私の想像です。でも、貴方が香川さんを殺したのは、紛れもない事実ですよ」
 千夜はポケットからスマートフォンを取り出した。それは録音状態になっている。
「確かに言いましたよね、殺したと」
「この……」
 国本はホルマリン漬けを置くと、千夜の胸倉を掴んだ。
「きゃっ!」
「千夜!」
 準備室のドアが開く。
 入ってきた風切が、国本を千夜から引き離すと殴り付けた。
「うっ」
 国本は棚に体を打ち付け、呻き声を上げる。
 風切は千夜の手を掴んだ。
「大丈夫か!」
「うん、ありがと」
 千夜は微笑む。
「うう……、私と、弓子は……」
 国本の声に、はっとする二人。
 だが、彼は項垂れたままただ呟く。
「愛し合っていたんだ。弓子は私に微笑みかけて、訊いたんだ。愛とは何かと……。それは、私に愛情を教えてほしかったからだろう……」
「ええ、教えて欲しかったんでしょうね。生物学的に、自分が抱く愛が間違っていたのか」
 千夜は、答えた。

 その後、警察に連絡した千夜は署で話を聞かれた。
 彼女はただ、見て聞いたことを話した。――水上のこと以外。
 千夜が解放された時、外は暗くなりかけていた。風切も別室で話を聞かれていたが、さすがに千夜ほど長くはかからず、待っているとメールがあった。
 しかし、千夜は先に帰っておいてくれと返信した。
「やれやれ、図らずも名探偵になっちゃった」
 千夜が一人で呟き、警察署を出ると一台の車が止まった。
「やあ、家まで送るよ」
「お願いします」
 疲れていた千夜は、殺人鬼の申し出を断らなかった。
「でも、大丈夫なんですか? 現代の切り裂きジャックがこんなところに来て」
「はは、大丈夫。証拠とか残してないから」
「それならいいんですけど」
 水上は運転をしながら話し始める。
「事件を解決した気分はどうだい?」
「不思議な感じです。まるで……」
 千夜は胸を押さえる。
「犯人の殺意と狂気が、私の中に流れ込んでくるような感覚でした」
「そうだ、やっぱり君には素質がある」
「素質?」
「人を殺す――殺人鬼になる素質だよ」
 丁度車が赤信号で止まった。
 水上は千夜の方を向き、笑う。
「君は今、蛹なんだよ。これからたくさんの事件に関わっていき、どんどん殺意と狂気を吸収していくんだ。そしていつか……」
 信号が青になり、水上は前を向いた。
「殺人鬼として、羽化すればいい」
「殺したい人間はいますよ、確かに」
 千夜は事も無げに言う。
「でも私はまだ、この気持ちをどうすればいいのか分からない。――だから貴方の生き様を見せてください。人を殺す者の末路が、どんなものになるのか」
 水上は「ははは」と笑った。
「ああ、存分に見てくれ。そしてどうか心の片隅に、俺の殺意と狂気を留めておいてくれ」
 千夜は黙って頷く。
「さあ、ついた」
 車が止まる。もう千夜のマンションに着いていた。
「これからも、君の活躍に期待しているよ」
 降りようとした千夜に、水上は微笑みかけた。



エピローグ
「危ないことすんなって、言ったよな?」
 海戸は、千夜の頭に拳をこつりと当てた。
「ごめんなさい」
 千夜は項垂れる。
 警察から保護者である海戸に連絡がいったのか、部屋に戻るとすぐに海戸が訪ねてきた。
「大体、何でこんなことしたんだ? お前のことだ、ただの好奇心とかじゃねえんだろ? 誰に頼まれたんだ?」
 そう訊かれ、千夜は口篭った。
 少し彼女の過去の話をしよう。
 千夜は父親を知らずに育った。
 子供の頃、母は千夜にこう言った。
 ――お父さんはね、お星様になったのよ。
 ああ、父は死んだのか、と子供心に思った。
 たまに遊びに来てくれる祖父はとても優しく、父の日に幼稚園や小学校で絵を描かなければならない時は彼の絵を描いた。
 母の弟である海戸も千夜を気にかけ、よく遊んでくれた。
 母は厳しくも優しく、愛情を注いでくれた。
 金銭的な苦労もしなかった。決して不幸ではなかった。
 むしろ幸せだった。
 愛されて育った彼女は、父も同様に自分を愛してくれていたのだと信じ込んでいた。
 そう思えば、父の不在も些細なことに思えたのだ。
 だがそんな幸福は、ピアニストの母がコンサートに行く最中事故で他界したことから崩れ始める。
 葬儀の後、祖父と海戸は千夜のマンションでこれからのことを話し合っていた。
 疲れとショックで一人早めに眠った千夜だが、ふと目が覚めた時、その会話を聞いた。
「あの男に知らせるべきじゃねえか?」
「いや、もしあれが千夜に会いにきたらどうする」
「でも、父親なんだぜ? 会いに来るべきだろ」
 父は、生きている。
 思えば気付くべきだったのかもしれない。父の名前すら口には出さない母に、叔父に、祖父に、不信感を抱くべきだったのだ。
 今という時代はとても便利だ。千夜は戸籍謄本を取り寄せ、初めて知った父の名前をインターネットの検索ボックスに打ち込んだ。
 エンターキーを押して出てきたのは、大学のホームページだった。彼の名と写真は講師一覧の中にあった。
 どこにも故人という表現は見られない。ホームページは最新のものだ。
 ――やっぱり、生きてるんだ。
 千夜はすぐその大学へ向かった。幸いというべきか、電車で一時間ほどの所にある大学だったのだ。
 大学内で迷っていた千夜に声をかけてきたのは、偶然にも写真で見た父だった。
「あの、私……、千夜です。貴方の、娘の……」
「ああ、千夜か」
 父が自分の名前を呼んでくれた。
 それが嬉しかった。
 きっと何か理由があって共に暮らせなかったのだろう。父は自分を愛してくれている。そのはずだ。
 ――父親が娘を愛するのは、当たり前のことだ。
 愛されて育った少女は、そう信じて疑わなかった。
「私には家族がいるから、会いに来るな。迷惑だ」
「え?」
「もう、来るんじゃない」
 父はそれだけ言うと、去っていった。
 ――何で? 家族ってなに? 私は、家族だろ? 娘なんだから。
 何かの間違いだったのかもしれない。
 まだマンションに滞在していた祖父に、大学でのことを打ち明けた。
「それは人違いだったんだろう。お前の父親は別の人で、千夜のことを愛してくれているよ」
 そう言われるものだと、思っていた。
 だが、祖父は苦々しい表情を浮かべ全てを語る。
 父が母に暴力を振るっていたこと。
 母が千夜を連れて逃げたこと。
 その後、父が再婚したこと。
 祖父はもうあの男と関わらないように言った。
 千夜は頷いた。
 だが、一度ついた殺意の炎は消えることはなかった。
 ――娘を愛さない父親なんて、死ねばいい。
 その気持ちが、いつも心の中にあった。
 ――いや、死ねばいい、じゃない。私が、殺してやる。
 父を殺す夢を何度も見た。
 ――私は、蛹……。
 ふいに、スマートフォンがメールの受信を告げた。
「ごめん、ちょっと」
 千夜は海戸から目を逸らし、メールを確認する。
『大丈夫か? 明日、学校来られそうか?』
 秋葉からだった。
「大丈夫、行くよっと」
 千夜が返信すると、すぐにまたメールが返ってくる。
『帰りにドーナツでも食いに行こうぜ。みんな暇だから』
 帰ってきた言葉に、千夜はふふふと笑う。
「嘘つき」
 風切と秋葉は明日、バイトがあったはずだ。
「は?」
「ううん……」
 千夜は笑顔を見せた。
「私はまだ、大丈夫だから……」
 海戸はやれやれと肩を竦め、苦笑した。
「当たり前だ、お前はたくさんの人間に愛されてるんだからな」
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テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学

  1. 2017/03/01(水) 10:54:20|
  2. 没小説
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