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第三話『罪を繰り返すのは愚か者』

 僕あま第三話。
 秋葉によくにた少年が殺された。自分と間違えられたのだと考えた秋葉は真相解明に乗り出す。


『罪を繰り返すのは愚か者』

プロローグ
 不安な夢から目覚めた秋葉は、溜め息をついた。
「これのせいかよ」
 パソコンのスクリーンには、髪の長い美少女が男の胸にナイフを突き立てているシーンが映し出されている。
 だがそれは二次元、CGだ。
「ラブコメだと思ったのに、騙された」
 秋葉はパソコンデスクに置いていたゲームのパッケージを見つめ、顔を顰めた。
 目の大きな三人の美少女が微笑んでおり、タイトルはポップな字体。ラブコメと思っても仕方はないだろう。
「ま、18禁ゲーやってる俺にも非がある、か?」
 秋葉は苦笑し、パソコンからCD-ROMを取り出した。
 隣人から借りたこれは、学校に行く前に返しておこう。
 ふと、デスクに自分の涎が落ちているのに気付く。
「箱に垂らさなくて良かったぜ。プレイしてる最中に寝ちまうとか、笑えねえ」
 立ち上がりカーテンを開けると、部屋が一気に朝の日差しに照らされる。
 フローリングの床にはコミックやライトノベルが乱雑に散らばっているが、一人暮らしなので文句を言う者もいない。
 モダンな三階建てのアパートの203号室で、秋葉は学校に行く用意を始めた。
 朝食のトーストを食べながら、録画していた深夜アニメを見る。
「やっぱミルキーピーチのロリボディは最高だな」
 独り言は誰にも否定も肯定もされない。
 それが彼には心地良かった。
 アニメの予告まで見てしまうと、そろそろ家を出なければいけない時間になっていた。
 秋葉はカッターシャツの上に学ランを羽織ると、右手に通学鞄、左手にゲームの箱を持ち玄関に向かった。
 この部屋は実家が晴常高校から遠いという理由で借りたものだ。
 両親は家賃の半額を負担してくれているが、残りの半分と光熱費は秋葉がバイト代で補っている。
「ま、一人暮らししたいとか俺のワガママだし」
 秋葉はそう呟いて鍵をかけ、202号室のインターホンを押した。
「はい。ああ、おはようございます」
 ワイシャツにスラックスという格好の、どこか薄幸そうな青年がドアを開ける。
 彼がゲームの持ち主である。二十代後半で、よくは知らないが自宅で仕事をしているらしい。
「どーも。これ、プレイしましたよ。ありがとうございます」
「ああ、どうでした?」
 彼、滝田明人は死んだ魚のような目にほんの少し光を灯し、ゲームを受け取る。
「バッドエンドがなかなか刺激的っすね。ラブコメと思ってたんで結構ビビりました」
「でしょう? でも、ヤンデレ美少女になら刺されたいですよね」
「そっすねー、まあ俺は美少女よりロリロリな方が好みっすけど」
「なるほど。では次はそういうゲームをお貸ししますよ」
「お願いします。じゃ、俺はそろそろ学校行ってきます!」
 秋葉は腕時計に目をやると、階段に向かって駆け出した。
「隣人にも恵まれてるし、いいアパートだよな」
 晴常高校までは歩いて十分。バイトが多少大変でも、秋葉はここで暮らしたいと思っている。

 教室に入ると、自分の席の辺りに目立つ人物を目にした。
「またかよ」
 秋葉はその様子に苦笑した。
「今日こそは詳しく話していただきますわ、海戸さん!」
 カメラを持った地味な男子の隣で、ハンディレコーダーを手にしている女子生徒。金色のカールした髪に似合わぬ大きな眼鏡をかけた彼女は、千夜ほどではないがグラマーな体付きをしている。
「だからー、気軽に話すことじゃないって」
 席についている千夜は面倒臭そうにそう言い、肩を竦めた。
 クラスメートが殺された事件を千夜が解決してから数日が経ったが、毎日こんな様子だ。
 新聞部部長の華小路葵と、彼女の後輩の広田優。彼女たちの『取材』にはさすがの千夜も困っているらしい。
「よう、相変わらずみてえだな」
 秋葉はそのすぐ近くの席につき、隣の風切に囁く。
「そうそう、華小路も飽きねえよなー」
「まったく騒々しい。予習に身が入らん」
 冷奈は眉間に皺を寄せている。
「はあ……」
 その後ろで、朝練後の原石がスマートフォンを弄りながら溜め息をついた。
「ん、どした?」
 秋葉はその手元を覗き込む。彼が見ているのは大型の掲示板サイトのようである。
「お前がそういうの見るって珍しいな。なんか気になることでもあるのか?」
「ああ、後輩が言ってたんだが……」
「どれ」
 秋葉はスマホを受け取り、風切りと共にレスに目を通していった。冷奈は興味がないらしく、教科書から目を逸らさない。
「んー、『晴常高の殺人事件、解決したの女子高生ってマジ?』『マジ、高校生が先に解決するとか警察マジ無能www』『ソース出せ』『俺晴常生だし』」
 ここでID付きの紙切れと共に、晴常高校の生徒手帳の写真がアップされている。
「『女子高生探偵の詳細キボンヌ』『イニシャルはSK。可愛くてすっげー巨乳』――完全に千夜のことじゃねえか」
「だよな、イニシャルSKで巨乳とか」
 秋葉と風切は顔を見合わせた。
「『巨乳女子校生探偵SKちゃん萌え』『噂だと全国模試一位らしい』『マジかwwwスゲーwww』」
 その後も、『巨乳万歳』『女子高生ペロペロ』『萌え』などのワードと下世話なレスが続いている。
「くだらんな」
 冷奈は教科書を置き、溜め息をつく。
「お、聞いてたんだ」
「隣で話されれば嫌でも耳に入る」
「それもそうか」
 秋葉は笑って原石にスマホを返した。
「心配だ」
 原石は一人頭を抱える。
「ネットの噂話なんて七十五日どころか五日で終わるって、気にすんな。当の本人も気にしてねえし」
 千夜の方を見ると、まだ新聞部との攻防に追われていた。
「海戸さんは今、この学校一の有名人と言っても過言ではありませんのよ! 是非事件の詳細を記事にさせてくださいな!」
「いや、だからさ、それなら週刊誌でも買えばいいって話じゃん?」
 千夜はそう言って溜め息をつく。
「事件の結末を憂う海戸先輩の写真、撮らせていただきます」
 広田が無気力そうな声と共にシャッターを切る。
「それ駄目なやつでしょ。私は君たちのしつこさに憂いてるんだけど?」
 千夜が文句を言ったところで、始業のチャイムが鳴った。
「ああ、もうこんな時間ですの! では、続きは放課後にいたしましょう。ご機嫌よう!」
 高笑いをしながら隣の教室へ帰っていく葵と、ぺこりとお辞儀をする広田を見つめ、千夜は頭を押さえる。
「大変だな、千夜」
 秋葉はそう言いつつ、珍しく困った様子の千夜に苦笑した。



第一章
 放課後になると、千夜は一目散に教室を出て行ってしまった。
「有名人も大変だな、どこ行くんだろ?」
「漫研辺りじゃね?」
「あー、なるほど」
 風切と秋葉が喋っていると、案の定葵と広田が教室に入ってくる。
「いませんね、海戸先輩」
「逃がしませんわ! 探しますわよ!」
 駆け出していく二人を見送り、秋葉は心の中で千夜にエールを送った。
「あれは、五日で済むと思うか?」
 原石の言葉に、冷奈は「さあな」と肩を竦める。
「新しい事件でも起こればそっち行くだろ」
 と、秋葉が不謹慎なことを言った時だった。
「あの……」
 教室の入り口で、おずおずとした声がした。
 それはか細く不安そうで、生徒たちのお喋りに掻き消されてしまう。
 だが丁度そちらを見ていた風切が気付き、「どーした?」とやや大きな声で返事をした。
 青いネクタイから察するに、一年生だろう。黒髪を左右でくくったどこか地味な印象の彼女は、
「え、えっと、お兄ちゃ……、秋葉、先輩いますか?」
 と、辛うじて届くぐらいの声で問いかける。
 風切は思わず秋葉を見つめた。
「何だよ?」
「お前、妹いたっけ」
「まあな」
「初耳だ」
 原石も少々驚いている様子。
「秋葉ならこっちだぜ」
 風切の言葉に、秋葉を隠すようになっていた生徒が体を避ける。
 兄の姿を見た彼女はほっと息をつき、「失礼します」と教室に足を踏み入れた。
「あの、秋葉貴乃です。お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
 礼儀正しくぺこりと頭を下げられ、風切と原石は笑った。
「よろしくな、俺は風切誠司。秋葉ー、こんな可愛い妹がいるなら言えよ」
「一年生か。もう晴常には慣れたか? 俺は原石正太だ」
 明るく話しかける二人とは対照的に、秋葉はどこか他人行儀な笑顔を浮かべて貴乃を見る。
「どうしたんだ?」
「あ、あのね、お兄ちゃんに、相談があるの」
「そうか。今日じゃないと駄目か?」
 その言葉には素っ気のない響きが混ざっていた。
「おいおい、妹が困ってんだから今聞いてやれよ」
「そうだな、俺たちも力になれるなら付き合うが」
「原石は部活あんだろ」
 秋葉の言葉に原石は首を振る。
「今日は顧問が出張で休みなんだよ」
「俺も今日はバイト休み。とりあえず食堂行くか、三年の教室じゃ緊張するだろ」
 風切はおどおどとしている貴乃にそう言うと、秋葉の肩を叩いた。
「行こうぜ」
「ああ、分かった」
 秋葉は渋々といった様子で立ち上がる。
「冷奈は……」
「私は塾がある」
「おー、そっか。じゃ、三人で相談に乗るよ」
「あ、ありがとうございます」
 貴乃はぺこぺこと頭を下げた。
「気にしないでいいからな」
 原石は内気な少女にどこか自分を重ね、笑いかけた。
 彼らが四人で教室を出ていくのを見つめ、冷奈は一人呟いた。
「秋葉が妹の話をしたことないんだ。気を使うべきだろう」

 食堂にいるのは数人の生徒たちのみ。四人は適当な席を見付けると座った。
「で、相談ってのは?」
 そこはやはり兄としてなのか、秋葉が口火を切る。
 貴乃はほっとしたように息をつくと、
「実は、変なことがあって……」
 と、話し始める。
「一週間前かな、家のポストにこんな手紙が入ってたの」
 学生鞄から取り出したのは一通の封筒。差出人のところに名前は無く、宛名には秋葉貴乃様と癖のある字で書かれている。
 渡された秋葉は中身を取り出し、目を通す。原石とその向かいに座っている風切も覗き込む。
「これは……」
 原石が眉間に皺を寄せた。
 入っていたのは明らかに盗撮と思われる三枚の写真。そして、『いつでも君を見ている』と書かれた便箋だった。
「気味わりいな」
 風切はそう言うと、下校途中に撮られたと思われる写真を見つめた。電車内で撮られたのだろう、吊り革に掴まる貴乃の姿が写っている。
「それだけじゃないの。毎晩無言電話がかかってきて、お母さんも怖がってる」
「お袋さんも大変だな」
 原石は秋葉に声をかけたが、彼はいまいち感情の読み取れない声で「ああ」と言うだけ。
「親父は、何て言ってる?」
「あ、お父さんは仕事で忙しくて……」
「ああ、そうか」
「だからお兄ちゃんに相談しに来たの。学校じゃないと、なかなか会えないから」
「そうだな」
 秋葉はそう言って少し考える。
「とりあえず戸締りはきちんとして、帰りはできるだけ友達と帰るようにしとけ」
「あ、うん……」
 やはり素っ気のない言葉に、風切と原石は顔を見合わせる。
「なあ、秋葉なんか冷たくね?」
「そうだな、せめて一緒に帰るぐらいしたらどうだ?」
「実家は遠いんだよ。俺はバイトだってあるし」
「そうだけどさー」
 不満そうな風切を見て、貴乃は慌てて首を振る。
「いいんです、先輩! うちってほんと遠いし、お兄ちゃんはバイトすごく頑張ってるし、それに私たち……」
「貴乃」
 妹の言葉を、秋葉は遮った。
「とりあえず親父に伝えておいてくれ、もう少し家にいるようにって」
「あ、うん、分かった。お父さんに言っておくね」
 貴乃はそう言うと俯いた。
 気不味い沈黙が場を支配する。
 それを破ったのは秋葉だった。
「とにかく、親父に頼ってみること。それで駄目だったら警察に行ってみな。ストーカーっぽいし」
「うん、そうする。聞いてくれてありがとう、お兄ちゃん」
 貴乃は立ち上がるが、そこでくしゃみをする。
「そっか、もう夏服にしてるもんな」
 半袖のブラウス姿の貴乃は、少し寒そうだった。
 晴常高校は六月になると夏服期間が始まる。この一ヶ月は夏服、冬服のどちらを着てきても良いことになっており、風切ももう学ランは着ていない。
 だが、今日は六月にしては少し冷えた。
 秋葉はやれやれといった様子で自らの学ランを脱ぐと、貴乃に渡した。
「不格好だけどそれ羽織っとけ。風邪引くよりいいだろ」
 受け取った貴乃は少し戸惑った様子だったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、お兄ちゃん!」

 その後、秋葉は結局バイトに行ってしまった。
 風切と原石は教室に戻り、浮かない顔をしている。
「大丈夫かな、貴乃ちゃん」
「心配だよな」
 気になるのはそれだけではない。秋葉の態度もだ。
 秋葉はどこか冷めたところはあるものの、冷たい人間ではない。むしろ友達想いな方だ。
「何であんなに素っ気なかったんだろ、秋葉のやつ」
「やっぱり、おかしいと思うか?」
「どしたの? ってか、まだ残ってたんだ」
 明るい声が響く、千夜だ。
「おー、新聞部から逃げ切ったのか?」
「結局どこにいたんだ?」
 二人の問いに、千夜は頭を掻く。
「漫研に匿ってもらってた。まーた彼女たちに借りができちゃったよ」
「やっぱ漫研だったか」
「ま、あそこは安全だからねー。で、君らはなに浮かない顔してるわけ?」
「ああ、実はさっき……」
 原石は大体のことを説明した。
 すると千夜は、「あー」と頬を掻く。
「何か知ってるのかよ、千夜」
「うーん、私が言っていいのかな」
「できれば聞かせてほしい」
「うん、地雷回避のためにも」
「ま、それは確かにね」
 千夜は自分の席に座ると腕を組んだ。
「秋葉君と貴乃ちゃんってさあ、兄妹っていっても腹違いなんだよ」
「母親が違うってことか」
「うん、だから色々複雑なものがあるんじゃないかな」
「そっかー」
 風切は背中を椅子の背もたれに預け、息をつく。
「じゃあ俺ら、余計なことしちまったかなあ」
「ま、知らなかったんだから仕方ないでしょ」
「でも……」
 原石は頬杖をついた。
「やっぱ兄妹は仲良くした方がいいと思う。俺、弟いるから余計そう思うんだ」
「あー、君は弟君と仲良いんだ?」
「仲良いってほどじゃないけど、悪くはない」
「まあ、普通の家庭とは違うんだよ」
 千夜はどこか複雑な表情でそう言うと、鞄を手に取った。
「じゃ、私は塾行ってくるね。秋葉君の兄妹関係には、あんまり深く突っ込まない方がいいよ」
「あー」
「おう」
 二人は千夜を見送ると、顔を見合わせた。
「深く突っ込まない方がいい、か」
 風切は溜め息をついた。
「でも、力になれるならなりたいな」
 原石はそう言い、窓の外を眺めた。

 ドーナツ屋のバイトは九時に終わった。バスを降りてアパートに向かって歩くと、時々建っている街灯だけが唯一の灯りだった。今日は曇っていて月も見えない。
「帰ったら何すっかな」
 宿題は基本的に千夜に写させてもらっているが、そろそろ試験勉強を始めなければいけない。
「つっても、バイトは減らしたくないし」
 大学に進むつもりはない。卒業したら正社員にならないかという話も出ている今、穴は空けたくなかった。
 ――でも、とりあえずは卒業するのが第一、か。
 そんなことを考えていると、アパートが見えてきた。
「まずは録画してたアニメ見っか」
 ふと、呻き声が聞こえた。
「何だ?」
 アパートの前に、何かの影が見える。
 それは倒れている人間のようだった。
 ――厄介事に関わりたくはねえけど、見過ごすわけにもいかねえし。
「おい、どうした?」
 駆け寄る際に、パシャッと水溜りを踏んだ。
 そして抱き起こすと、べったりと何かが手に付く。
 風が吹き、隠れていた月が道を照らした。
「なっ!」
 彼の手に付いたのは血で、倒れていた少年の背中にはナイフが突き立てられていた。
 照らされた彼を見て、秋葉はあることに気付く。
 ――俺と、似てる……?
 背格好も、髪型も、そっくりだ。
 違うのは学ランを着ていることと、眼鏡をかけていないこと。
 もしも犯人が後ろから、この暗い中彼を刺したのだとしたら……。
 場所から考えても、本当は自分を刺すつもりだったのではないだろうか。
「俺が、刺されてた……?」
 呆然と呟いたが、秋葉は我に返った。
「そうだ、救急車!」
 呻き声がしたのだから彼はまだ息がある。
 秋葉はスマホを取り出し、119番にかけた。



第二章
 結局運ばれた先の病院で彼、笹木範明は死んだ。
 そのまま警察で話を聞かれ、アパートに帰ったのはとっくに日付けが変わった後だった。
 アパート前での騒ぎを気にして出てきていた滝田や他の住人は、カッターシャツにべっとりと血を付けて帰ってきた秋葉を見るとかなり驚いたようだった。
 だが説明するのも面倒だったため、彼は無言で自室に戻るとシャツを脱ぎ、ゴミ箱に突っ込んだ。
「あんだけ血が付いたら、洗っても落ねえしな」
 そう呟き、タンクトップ姿でベッドに寝転ぶ。
 そして、起こったことを頭の中で整理する。
 ――俺そっくりのやつが、俺の住んでるアパートの前で殺された……。
 警察で「君を恨んでいる人間に心当たりは?」聞かれたのを思い出した。
 ――刑事も、犯人は笹木を俺と間違えて殺したんだと確信してる。
「なに間違えてんだよ。ちゃんと、俺を殺せっての」
 そう呟き、壁に向かって寝返りを打つ。
 ――このまま寝て、目が覚めたら全部夢だったってならねえかな。
 そうだ、いっそ長い夢を見ていただけで、朝起きると自分は秋葉貴弘ではなく他人になっていたらいい。
「ありえねえけどさ」
 苦笑し、秋葉は微睡み始めた。
 ――誰かこの悪夢から、俺を叩き起こしてくれ……。

 朝、目を覚ましても自分は自分で、ゴミ箱に突っ込んだ血塗れのシャツにも変わりはなかった。
「そりゃそうか」
 秋葉は頭を掻き、いつも通り学校に向かった。
 教室に入ると、まず風切がほっとしたように息をつく。
「どーした?」
 秋葉は椅子に座りながら尋ねる。
「いや、ニュース見たらお前のアパートの前で殺人事件があったって言ってたから、心配した」
「そっか、サンキュー。俺は平気だぜ」
 そう言って笑ったあと、秋葉は真面目な顔で千夜の方を向いた。
「放課後、ちょっと漫研に付き合ってくれねえか?」
「いいよ」
「何でまた、漫研に?」
 原石が首を傾げる。
「ちょっと、調べたいことがあんだよ」
「そうか」
 原石はそれ以上追求はせずに話題を変える。
「そういえば、今日は華小路たち来ないな」
「ああ、昨日殺された笹木、だったか。そちらの方に標的が変わったらしい」
 冷奈も何だかんだ言って千夜のことを心配していたのかもしれない。その情報をどこで仕入れたのかは知らないが、そう言って肩を竦めた。
「マジか。笹木って何年だっけ」
「一年だ」
 秋葉の問いに原石が答えた。
「朝練のとき、後輩が言ってた」
「ああ、なるほど」
「そうそう、貴乃ちゃんと同じクラスだったらしいぞ」
 教科書を出していた秋葉の手が、一瞬止まる。
「へえ」
 なんとかそれだけ返し、無関心を装った。
「不安もあるだろうから、何か……」
「原石君」
 続く言葉を遮る千夜。
「そんなことより、この間貸した本読んだ?」
 にっこりと微笑まれ、原石は顔を赤くする。
「す、すまん。まだ途中で」
「そっか。別にいいよ、ゆっくり読んで」
「ああ、ありがとう」
 原石の意識がすっかり逸れたため、秋葉は内心で千夜に感謝した。
 お節介な友人の気持ちは分かっている。悪意からは程遠く、ただ自分の兄妹関係を心配してくれているのだと。
 それでも触れられたくない部分があることを、原石は知らない。
「幸せ者だよな、お前」
 秋葉が原石にそう言うと、彼は首を傾げ、
「あ、ああ……?」
 と頷いた。

 漫研のドアをノックすると、「はーい!」とるるが明るく応える。
「やあ、友達が聞きたいことがあるみたいでさ」
 千夜は秋葉の紹介を簡単にすると、空いているパイプ椅子に腰を下ろした。
「へえ、ここが……」
 秋葉はアニメのポスターがいたるところに貼られた部室を見回した。
「お、ミルキーピーチじゃん」
 可愛らしいピンクのコスチュームを纏った少女のポスターに目を留め、秋葉は声を上げた。
「先輩、知ってるんですか?」
 るるがいち早く反応する。
「おう、ピーチが好きでさ」
「あたしは悪の女幹部、ブラックソフィが好きなんですー。海戸先輩に似てるし!」
「ああ、確かに似てるかもな」
 秋葉は千夜を見るが。当の本人は首を傾げている。
「このキャラですよ、先輩」
 るるは資料であろうアニメ雑誌を取り出すとパラパラめくり、千夜に見せる。
 黒いボンデージに身を包んだ黒髪の美少女を見て、千夜は「へー」と何とも言えない返事をした。
「るる、あんたまた熱くなって」
 瞳が溜め息をつくと、るるは口を尖らせる。
「なによー、瞳だって少女漫画を語るときはこんなもんよ?」
「す、好きなことに熱くなるのは仕方ないよ。ね?」
 リナの言葉に、二人は「まあねー」と頷いた。
「で、何が聞きたいんですか?」
「ああ、昨日殺された笹木って、どんなやつだったか分かるか?」
 さすがにこういう問いには慣れたのか、るるは「はーい」と言って棚からファイルを取り出す。
「一年五組、笹木範明、成績は中の上。サッカー部に入ってて、自宅は殺された場所から十分ほどの所ですね」
「そっか、だから」
 ――うちの前を通ったところを刺されたのか。
「秋葉先輩、こんなこと言っていいのか分かりませんが」
 瞳は少し考えた末に言葉を紡いだ。
「もしかして、笹木が先輩と間違えて殺されたとか思ってませんか?」
「おー、よく分かったな」
 秋葉は重い雰囲気にならないよう、わざと明るい口調で答える。
「やっぱり。笹木って、先輩と似てるから……」
「それで秋葉先輩が責任感じてるんですか?」
 るるは納得がいかないという様子。
「そりゃ、まあな」
「でも、悪いのは犯人ですよ? 先輩に責任あるわけないじゃないですか!」
「私も、そう思います……」
 るるとリナに言われ、秋葉は困ったように笑う。
「でもさ、俺がいなかったら笹木は殺されなかったわけじゃん? 責任感じるなって言われてもなあ」
「秋葉先輩がいるからこそ、毎日楽しいって人もいると思いますよ」
 瞳は真剣な口調でそう言うと、千夜に視線を移した。
「ですよね? 海戸先輩」
「そうだね、私は君が好きだよ」
 微笑む千夜に、秋葉は一瞬ドキッとする。
「お前、好きはヤバいだろ」
「なに動揺してるのさ。ライクだよ、友達としてだからね?」
「当たり前だ」
「ずるーい! あたしのことも好きですよね、先輩?」
「安本さんのことも好きだよ?」
 こうやってふざけ合って、秋葉は少し救われた気がした。
 しかし、もう一つ聞いておきたいことがある。
「秋葉貴乃のことも、知りてえんだけど」
「妹さんのことですか?」
「腹違いの、だけどな」
「知ってますよー」
「お前らの情報網ヤバくね?」
 秋葉は思わず一歩下がった。
「ニュースソースは明かせません。笹木と同じクラスだからこのファイルね」
 瞳はページを捲ると、「これだ」と手を止めた。
「でも、何を知りたいんですか?」
「いや、まあ近況とか? シスコン兄貴の好奇心だと思ってくれよ」
「むしろ貴乃ちゃんの方がブラコンって感じですけどね」
 それを聞いた秋葉は言葉に詰まった。
「貴乃ちゃん、最近ストーカーにあってるみたいですねー」
 ファイルを覗き込んだるるの言葉に、秋葉は「ああ」と答える。
「それは本人から聞いた」
「そうですか」
 瞳はファイルを閉じると息をついた。
「正直なところ、先輩は笹木より貴乃ちゃんのことを気にした方がいいと思います」
 はっきりとした口調で言われると、否定もできなかった。
「ああ、そうだな……。サンキュ」
 頭を掻きながら礼を言い、彼女たちに背を向ける。
「また、何かあったらよろしく頼む」
「はーい、海戸先輩といっしょに来てくれるなら大歓迎ですよ」
 千夜は苦笑し、肩を竦めた。

「どう? 役に立った?」
 二人きりの教室で、千夜は尋ねる。
「ああ、まあ。なんか凄いな、あいつら」
「でしょー? 私たちのことも、どこまで知ってるんだろうね」
「さあな。――で、だ」
「ん?」
「俺なりに考えてみた、事件のこと」
「やっぱり責任感じちゃってるんだ?」
「そりゃそうだろ。俺と間違えられたんだぞ」
 秋葉はそう言うと、溜め息をつく。
 千夜は椅子の背もたれに背中を預けると、そんな彼を見つめる。
「もっと重要なことがあるんだけどね」
「なんだよ、お前まで貴乃のこと言い出すのか?」
「そうじゃなくてさ、犯人の目的が秋葉君である以上、これからも君は狙われるかもしれないんだよ?」
「え?」
 秋葉は間抜けな声を上げた。
「え?」
 千夜も同じような声を上げる。
「君さ、まさかそのこと、頭になかったわけじゃないよね」
「やべ、全く考えてなかった。いや、マジで」
「マジで?」
 呆れたような声に、秋葉は苦笑した。
「そっか、そうなんだよなー」
「そうだよ、笹木君のこともいいけど、自分の心配もしたら? 君はもっと自分を大事にするべきだよ」
「ああ……」
「ま、それも踏まえて考えるとして、君が事件に関して考えたことって?」
「とりあえず、笹木は学ラン着てたんだよなーって」
「君も昨日は着てたじゃない?」
「ああ、でも貴乃に貸した」
「そうだったんだ。じゃあ犯人の条件としては、君が学ランを脱いだことを知らなかった人物、だね」
 千夜はそう言って、机を人差し指でこつこつと叩く。
「だよな。あとは、俺を殺そうとする理由だ」
「心当たりは?」
「――どうだろうな……」
 秋葉は少し考え込む。
 ――俺のことを、俺以上に殺したいと思ってるやつなんているのか?
「ストーカー」
 千夜は秋葉の顔を覗き込みながらその単語を出す。
「貴乃ちゃんのストーカーとかは? ストーカーが相手の家族にも手を出すとか、よくある話だし」
「ああ、そうか」
 秋葉は答え、溜め息をついた。
「俺は、貴乃ともっと向き合うべきか?」
「いきなりどうしたの?」
「いや、犯人がストーカーなら、貴乃にも色々聞かねえと思って」
 千夜は「うーん」と腕を組む。
「こういうデリケートな問題はさ、向き合うだけが全てじゃないと思うんだよね。保留したり、時には逃げることも必要だと思う」
「逃げることも、か」
 ――逃げていいなら、逃げ切ってやる……。
「俺はさ、最低な人間なんだよ」
 窓の外を見ながら、彼は呟く。
「罪を背負って、本当なら俺が死ぬべきなのに、周りの人間を傷付けながら生きてる」
「私だってそんなもんだよ。ただ、他人を傷つけてでも生きたい。生きることが、踏み台にした人間への礼儀なんじゃないの?」
「踏み台は首を吊るためのものじゃないってか」
「うまいこと言うね、君」
 千夜はくすくすと笑い、足をぶらぶらと揺らした。
「殺してでも生きたいんだよ、私は」
「でもさ、そこまでして生きる価値ってあんのかな、この世界に」
「世界にはなくても、私には価値がある」
 強気な言葉に、秋葉は口笛を吹いた。
「さすがだな」
「それだけの努力はしてるもの。罪を犯しても、私がそれを正しいと思ったなら胸を張るだけ」
「そっか。お前は何だかんだ言って、逃げねえよな」
「逃げる時は逃げるよ。逃げるが勝ちって言うし」
「勝てば官軍?」
「負ければ賊軍」
「お前とダチで良かったと思うぜ」
「私も、君と友達で良かった」
 そんな言葉を交わした時、秋葉のスマホが震えた。
「何だ?」
 メールだ。貴乃からだった。
 その文面を見て、秋葉は溜め息をついた。
「どしたの?」
「逃げるが勝ち、だよな」
 貴乃からのメールによると、今日は義母が実家に用事があって一晩帰れないらしい。
 ――夜一人なのは不安だし、学ランも返し忘れたし……。
「今日、お前のうちに泊めてくんね?」
 ――お兄ちゃんのアパートに、泊めてほしいの。



第三章
 学校からそのまま千夜のマンションへとやってきた秋葉は、その広い部屋を見回した。
「ほんっとお前っていいとこ住んでるよなー」
「おじいちゃんがさ、女一人で済むならセキュリティーとかしっかりしてるところじゃないとって言ってね」
「お前のじいさんって何してる人?」
「田舎でミステリー小説書いてるよ」
「へえ」
 秋葉はリビングのソファに腰を下ろすと、息をついた。
「じゃあ、着替えてお茶淹れてくるね」
 千夜はネクタイを解いてパサりとソファに置くと、寝室に入っていった。
 ――なんか勢いで泊まるって言っちまったけど……。
 秋葉はあたまを抱えた。
 ――よく考えたら、色々まずくねえか?
 千夜はれっきとした友人だ。互いに恋愛感情などは欠片も持ち合わせていない。
 だが、それでも男と女である。
「ま、ありえねえけどさ」
「なにか期待してるの?」
 寝室のドアを開けた千夜はTシャツにショートパンツというラフな部屋着姿。
「してねえよ」
 秋葉は苦笑する。
 そうだ、冷静に考えてありえない。
「君は二次元にしか興味ないしね」
「ああ、二次元のロリこそ至高」
「さすが」
 千夜はくすくすと笑い、ダイニングキッチンで紅茶を淹れ始めた。
「そういや、貴乃ちゃんにメール返すくらいはしたの?」
「ああ、用事あるから悪いけど友達の家にでも泊めてもらってくれって」
「ま、妥当なとこだよね。それに君がうちに来たのは正解だと思うよ」
「え?」
「犯人は君のアパートを知ってるんだもん」
「ああ……」
 貴乃のことに気を取られ、そのことを忘れていた。
「そうだな、じゃあ明日は風切のところにでも泊まるわ」
「家出娘かよ」
 千夜は笑い、ティーカップをローテーブルに置いた。
 秋葉と向かい合うようにカーペットの上に足を崩して座る。
「寝るとこはソファでいい? ブランケットは貸すし」
「ああ、充分だ」
「了解」
 千夜はどこかわくわくしているようで、秋葉は首を傾げた。
「あ、なんかさ、夜一人じゃないのって珍しいから、ちょっと楽しんでるかも」
 そんな秋葉の疑問を察したように、千夜は苦笑する。
「あー、そっか」
 千夜は自分とは違い、自らの意思で一人になったわけではないのだと思い出す。
 ――お袋さんが亡くなって、親父さんも子供の頃に死んだって言ってたっけ。
 そう考えると、自分は恵まれている方だ。帰る家も、家族もいる。
「そうだよな……」
「ああ、でも別に不幸だとは思ってないよ。来てくれる人もいるし」
「ん、校外の友達か?」
「うん、まあ」
「そっか」
 詮索することはせず、秋葉は窓の外を見つめた。
 このマンションから自分のアパートは見えるだろうか、などと考えながら。
 七時に近くなった今、暗い街を照らしているのは人工の光だけだ。
 人はそれを夜景と呼び、賛美する。
 ――確かに、綺麗だよな。
 このマンションからは海も見え、安っぽい言葉を使えばロマンチックだ。
 そんなことを考えていると、チャイムが鳴った。
「ちょっと待ってて」
 千夜は立ち上がり、ドアの横にある来客確認用のディスプレイを見つめた。
「あら」
「誰だ?」
 千夜は困ったような顔で秋葉を見る。
「原石君と――貴乃ちゃん」

 居留守を使うわけにもいかず、千夜は結局二人を招き入れた。
 エントランスからこの部屋までくるのに、何十秒かかるだろうか。
 秋葉はその間に考える。
 ――俺は貴乃に、なんて言えばいい……。
 逃げればいいと思っていた。それでも彼女は追ってくる。
 追ってくるのは貴乃だけではない。自身の過去が、共に秋葉を追い詰める。
 過去の罪は、どうやら彼が目を逸らすことすら許してはくれないらしい。
 もう一度、今度は先程とは違う音のチャイムが鳴った。
 二人が玄関まで来たのだ。
「はーい」
 千夜がそちらへ向かう。
 ――俺は、どうすればいい……。
 秋葉は立ち上がった。
「おーい、秋葉」
「あの、お兄ちゃん……」
 入ってきた二人の横をすり抜け、玄関を走り抜ける。
「秋葉君?」
 千夜の声はもう遠かった。
 ――俺は、逃げるしかできないんだ。
 エレベーターに駆け込んだ秋葉は溜め息をついた。
「原石のバカヤロー」
 そう呟いてから、前髪をぐしゃりと掴む。
「バカヤローは、俺か」

 荷物も置いたまま、秋葉は夜道を走った。
 そして自分のアパートに辿り着くと、隣人の部屋の前で頭を掻く。
 ――図々しいけど、頼むしかねえよな。
 チャイムを押すと、「はーい」と気怠げな返事。
「秋葉っす。すんません、今晩泊めてもらえませんか?」
「いいですよ、開いてるのでどうぞ」
 言われた通り、勝手にドアを開けて中に入る。
「いやー、こないだの事件、犯人の目的は俺じゃないかって言われてるんで、自分の部屋に戻るの怖いんっすよね」
 誤魔化して笑いながら、リビングのドアを開ける。
「ああ、ですよね」
 滝田は秋葉を見て微笑む。
「すみません、間違えてしまったようで」
 その発言に、リビングの異様さに、秋葉は息を飲んだ。
 貴乃が、彼を見つめていた。
 いや、貴乃の写真が、物の少ない部屋の至る所に貼ってある。
「滝田さ……、これは……」
 秋葉は呆然とし、一歩下がる。
「貴乃さん、可愛いですよね。以前君に会いに来たことがあったでしょう? あの時からずっと、見つめているんです。でも彼女、君のことが好きなんですよね? おかしいですよね、兄妹同士なのに。だから秋葉君を殺したら目が覚めるかと思ったんですが、人違いをしてしまって」
 いつもより早口で、流れるように喋る滝田の目に、狂気のようなものは見えなかった。
 彼はいつも通り、死んだ魚のような目をしている。
 ――この人は狂ってない。そうだ、狂ってるのは……。
 秋葉は言葉を返すこともなく、その場に蹲る。
 ――狂ってるのは、俺だ。
 罪を犯して平気で生きて、自分の代わりに死んだ者のために、何もできやしなかった。自ら死ぬことも、しなかった。
「いや、俺の方こそ、すみません……」
 何とか、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「俺なんかのせいで、人殺しになっちまって……」
 ――ごめんな、笹木。ごめんな、貴乃。ごめん、母さん……。
 今秋葉にできることは、貴乃に自分と同じ罪を犯させないようにすることだけだった。
「だからもう、間違えないでください」
 ふらつきながらも立ち上がって、心臓の辺りをとんとんと叩く。
「ああ、はい。今度は間違えません」
 滝田はにっこりと微笑み、ナイフを手にした。
 付着している血液は、笹木のものだろう。
 彼はゆっくりと、秋葉に歩み寄る。
 ナイフが、迫る。
 ――これで、いいんだ。
 不思議と穏やかな気持ちだった。
 ただ死を待つ。それは自ら死ぬことのできなかった彼にとって、幸福な時間だった。
 だが、それは破られる。
「何で……」
 滝田と秋葉が、同じ言葉を呟く。
 秋葉を押しのけ、前に出たのは貴乃だった。
 あと二、三センチで胸に届いたはずの刃が、貴乃の首筋を裂いた。
「お、にい、ちゃん……」
 貴乃の体が、ゆっくりと倒れていく。
 このスローモーションは、見たことがあった。
 ――同じだ、あの人が、死んだ時と……。
「あああああっ!」
 秋葉は頭を押さえ、叫んだ。
「何で、何で貴乃さんが……」
 滝田の瞳に、戸惑いの色が差す。
「ち、違うんです。僕は彼女を傷付けるつもりなんてなかった。何で、何で……」
 ナイフを持ったまま慌てふためく滝田の頬に、拳がめり込んだ。
「大丈夫か! 秋葉!」
「救急車と警察呼んだから! 貴乃ちゃんの止血しとく!」
 原石は滝田を殴り付けたあと、しっかりと床に押さえ込む。千夜は倒れている貴乃の首元を、自らが羽織っていたジャケットで抑える。
「こんな、はずじゃ……」
 秋葉はぼんやりとその光景を見つめていた。
「こんなはずじゃ、なかったんだよ……」
 何故、自分が生きているのか。
 何故、貴乃が代わりになったのか……。
「おかしい、だろ」
 その頬を、涙が伝った。



エピローグ
 秋葉は病院の屋上で、明け始めた空を見つめていた。
 貴乃はまだ意識こそ戻っていないが、命に別状はないらしい。
 五階建ての総合病院。この屋上から身を投げれば、死ねるだろう。
 ――今なら、踏み出せる。
 鉄の柵を掴むと、昔のことを思い出した。
 秋葉と貴乃は母親が違う。
 秋葉の母は、父の浮気相手だった。
 その時まだ子供がいなかった秋葉家は、生まれた彼を半ば強引に引き取った。
 だがそのすぐ後に、正妻である義母と父の間に貴乃が生まれる。
 秋葉を待っていたのは疎外感だった。
 義母は秋葉を嫌い、父は興味すらないようだった。
 貴乃だけは純粋に秋葉を慕ってくれたが、義母はそれを良しとしない。
「お兄ちゃんとは遊んじゃダメよ」
 そう言って貴乃の手を引いた義母の姿は、よく覚えている。
 そんな秋葉は中学を卒業すると、一人旅に出た。
 特に意味はない、小旅行。
 いや、あったのかもしれない。泊まった旅館の側には、自殺の名所と呼ばれる崖があった。
 だが、旅館でばったり出会った女性に惹かれた秋葉は、崖のことなど忘れていた。
 三十代後半であろう黒髪の女。
 まるで運命のように、二人は愛し合った。
 会ったばかりだというのに、名前も知らぬというのに、関係を持った。
 そう、運命だったのだろう。
 帰る日になり、秋葉が名前と連絡先を告げると彼女は目を丸くし、崖へと向かった。
 秋葉は訳も分からず後を追う。
 ――ごめんなさい。私は、貴方の母親なの。
 その言葉と共に、細い体は海に落ちていった。
 実の母と愛し合った記憶は、秋葉を責め苛んだ。
 何度も、後を追おうと思った。
 それでも死ぬことはできず、無為に時を過ごしていく。
 だが、貴乃がわざわざ晴常高校を受験すると決めた時、秋葉は気付いた。
 彼女が自分を男として、恋愛対象として見ていることに。
 同じ罪を繰り返すような、愚かなことはできない。
 何より、義妹に同じ罪を犯させてはならない。
 そして秋葉は、一人暮らしを始めた。
「秋葉!」
 感傷に浸っていて気付かなかった。原石が、秋葉の肩を掴んで引き戻す。
「ああ、原石……」
「何やってんだ! お前、今……」
「死のうと、思ってた」
 秋葉は苦笑し、頭を掻いた。
「でもな、駄目だわ。引き戻されるとさ、もう踏み出せなくなっちまう。俺は、駄目だな……」
「それで、いいだろ」
 原石は奥歯を噛み締め、下を向く。
「それでいいんだよ。俺たちが、何度だって引き戻す……」
「そっか……」
 ――ああ、そうだ。
 秋葉は思い出す。友人たちといる時、ほんの少し過去など忘れていたことを。
 死も、罪も、遠かったことを。
「貴乃ちゃんだって、お前を助けたくて必死だったんだ。命に別状はないし、秋葉が責任を感じることはない」
「そう、か……」
 貴乃から逃げたことを、今は後悔していた。
 向き合うことはできない。それでも、兄として接する方法は他にあるはずだと、秋葉は思う。
「そういや、千夜は?」
「警察で事情話してる」
「あいつにも迷惑かけちまったな。お前にも、さ」
「それでいいんだよ。大体、俺は迷惑なんて思ってないぞ。というか、必死で何も考えてなかった」
 原石は顔を上げ、笑った。
「サンキュ」
 秋葉は原石の肩を叩いた。
 ――俺のために必死になってくれるやつがいる。
「俺も充分、幸せ者だ」
 まだ、前を向いて進むことも、全てに向き合うこともできない。
 だが、今ここが、心地良い。
 進む必要はないのだ。今はここで、精一杯の青春を楽しむ。
 そう思うと、楽になれた気がした。
「じゃあ、戻ろうぜ」
「ああ、だな」
 秋葉と原石は朝日に背を向け、屋上を後にした。
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テーマ:ミステリ - ジャンル:小説・文学

  1. 2016/04/02(土) 13:51:32|
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