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晴天乱流『医師との遭遇』

 シリーズ小説『晴天乱流』の第一話です。
 書類を運ぶだけの依頼だったはずだが、事態は思わぬ方向に。


『医師との遭遇』

「いたぞ、そっちだ!」

 金色の髪を撫で付け、サングラスにオレンジ色のジャージという格好の男が叫んだ。

 彼の名は晴海天也という、歳は二十九歳だ。鍛えられた程良く筋肉の付いた体に見合った速さで、標的を追っている。

「分かっている!」

 黒髪に和服を着た端正な顔立ちの男が応え、腰に差していた木刀を標的に向かって投げ付けた。

 旭雄日文という名の彼は晴海と同い年。細身の体ながら力は強く、木刀は相手を仕留めることはなかったものの、木に突き刺さった。

「馬鹿かお前! 生きたまま捕まえるのが依頼だろ、殺す気か!」

「そうだったな。すまん、つい」

 そう言いつつも、旭雄はしれっとした顔で木刀を抜く。

 晴海は溜め息をつき、頭を掻いた。

「あいつ、木に登っちまったじゃねえか。仕方ねえな、俺も登る」

 晴海はとんっと地面を蹴り、木に掴まる。そして身軽にするすると登っていった。

「おら、観念しろよ。もう逃げ場はねえからな」

 そう言って、相手に手を伸ばす。

 だが、晴海は木の枝にかかる重さを考えていなかった。

「うおっ!」

 バキッという音と共に枝が折れ、彼は重力に従って落下した。

「いってー……」

 地面に強か腰を打ち付けた晴海は情けない声を上げたが、すぐに旭雄を見た。

「あいつは!」

「ちゃんと捕まえたぞ」

 旭雄は白いもこもことした生き物を抱き抱え、その頭を撫でている。

「にゃあん」

 ミケという名の白猫は、気持ち良さそうに目を細めた。



「ただいまー。ミケ引き渡して来たぜ」

 住宅街にある木造の古びた日本家屋。その引き戸を開けると晴海は中に入った。旭雄もそれに続く。

「お帰りなさい。晴海さん、旭雄さん」

 分厚い眼鏡に学ラン姿の少年が、ノートとボールペンを手に廊下へ姿を現す。

 茶色の髪に地味な顔立ちをした彼、広瀬貴弘は晴海に手を差し出した。

「ほい」

 晴海はジャージの尻ポケットから茶色の封筒を取り出すと、彼に渡した。

 広瀬は中を確認し、ノートに挟む。

「今月も赤字ですよ。依頼のほとんどはペット探しですし、せめて値上げした方がいいんじゃないですか?」

「そう言われてもなあ、下手に値上げしたら顧客が逃げるんじゃねえか?」

「うちは良心価格が売りだからな」

 彼らは便利屋を営んでいる。家の前に掛けられている『便利屋晴天』と書かれた木製の看板がそれを主張していた。

「そうですけど、家計をやりくりする俺の身にもなってくださいよ」

「そこはお前の腕の見せ所だろ。期待してるぜ、我が家の財務省」

 晴海は軽く笑って広瀬の肩をぽんぽんと叩いた。

「まったく」

 広瀬は肩をすくめて溜め息をついた。

「ま、客の幸せが俺らの幸せだし。――お、いい匂いだな、今日の晩飯は何だ?」

「肉じゃがですよ」

 廊下の突き当たりにある台所から、広瀬と同じ学ランに水色のエプロンを付けた黒髪の少年が顔を出した。

 広瀬の後輩である彼は君沢由一。童顔と低めの身長から中学生によく間違われるが、れっきとした高校生である。

「君沢の肉じゃがはうまいからな。今日も箸が進みそうだ」

 旭雄はそう言って居間に入っていった。

「相変わらず旭雄さんは能面付けてるみたいですね」

 広瀬は旭雄の後ろ姿を見つめ、腕を組む。

「ま、あれでも喜んでんだよ。表情には出さねえけど」

「喜んでるって分かる晴海さんも凄いですね」

 この家で彼らは共同生活を営んでおり、血の繋がった家族ではないがそれに近い絆がある。

 これはそんな彼らの物語である。



 ある日曜日の朝、晴海は鳴り響く目覚まし時計のアラーム音を消した。

「あー、ねみ……」

 頭を掻き、体を起こす。布団を畳み、部屋の隅にやった。

 この家にはそれぞれの部屋と居間、客間、台所、洗面所、そして風呂とトイレがある。古いが広い作りになっているのだ。

 タンクトップとズボンという格好の晴海はジャージの上着を羽織ると洗面所に行き、冷たい水で顔を洗った。

「やっぱ目え覚めるなー」

 台所から味噌汁の匂いがする。毎朝四人分の朝食を用意してくれる君沢に感謝しつつ居間に入ると、座卓で広瀬がノートに向かっていた。

「旭雄は?」

「相変わらず庭で素振りしてます」

「精が出るな」

 旭雄の真面目さに舌を巻きながら、晴海は広瀬と向かい合うように座った。

「そういやお前、学校の方はどうなんだ?」

「別に変わりはないですよ。もうすぐテストがあるくらいですね」

「テストか……。数学は問題ないんだろうなあ、お前の場合」

「はい、数学はいいんですが、現国と古典は苦手です」

「典型的な理系タイプか」

 そう言って、晴海は自らの学生時代を振り返り苦笑した。

「晴海さんは絶対体育会系でしょ」

 広瀬の指摘の通りだ。

「よく分かったな」

「やっぱり」

「試験は基本的に赤点だった」

「ですよねー」

「ま、生活能力さえあればいいんだよ」

 それを聞いた広瀬は呆れたように息をつく。

「勉強嫌いの常套句だ」

「うるせえな。ま、学生の間は適度に遊んで適当に勉強しとけ」

「はーい」

 その時、ピンポーンと来客を告げるチャイムが鳴った。

「客かな」

「かもしれませんね。君沢ー、まだ朝飯まで時間あるか?」

 広瀬が居間から顔を出し台所に向かって問いかけると、「大丈夫ですよー」と返事があった。

「丁度いいな」

 晴海は玄関に向かって「はーい」と声をかけ、立ち上がった。

 玄関の戸を開けると、スーツ姿の若い男が立っていた。

「すみません、依頼したいのですが……」

「おう、入ってくれ」

 居間の隣にある客間に依頼人を導く晴海。依頼人はどこか落ち着かない様子で正座をした。

「どうぞ」

 広瀬が依頼人の前に茶を置く。

「あ、ありがとうございます」

「探すのは犬か? それとも猫?」

 連続して十件のペット探しの依頼を受けていた晴海は、ついそう尋ねた。

「は? 犬?」

「違うのか?」

「これを運んでほしいんです」

 依頼人はスーツケースを座卓の上に置いた。

「大事なプロジェクトに関する書類が入っています。メールでは盗聴の可能性があるので、直接取引先に渡していただきたいんですよ」

「ああ、そういう依頼か、分かった。いつどこに届けりゃいいんだ?」

「これに書いてきました」

 依頼人はポケットからメモを取り出す。

 書かれていたのは郊外にある別荘地だ。車で二、三時間というところだろう。

「明後日なのですが、大丈夫でしょうか?」

「ああ、問題ねえ」

 今の所、便利屋晴天は暇である。スケジュールにも問題は無かった。

「これは前金です。残りは終わってからお支払いしますので」

 出された封筒は分厚かった。中身が千円札でない限り、なかなかの大金のはずだ。

「約束の時間に別荘の鍵を開けておきますので、お願いします」

 彼は一礼すると帰っていった。

「今のは依頼人か?」

 入れ違いに入ってきた旭雄がタオルで汗を拭いながら、依頼人を見送っていた晴海に問いかける。

「おう、大事な書類を届けてほしいんだと」

「そうか……」

 考え込む様子の旭雄に、晴海は首を傾げた。

「何か気になんのか?」

「いや、どこかで見た気がするんだが思い出せん」

「気のせいじゃねえの?」

「そうかもしれんな」

「払いがいいから広瀬が喜んでるぜ」

 晴海はそう言って笑った。

「ご飯できましたよ」

 丁度台所から君沢の声がして、二人は居間に入った。広瀬は既に座っている。

「広瀬先輩から聞いたんですけど、今回はなんだか難しそうな依頼ですね」

 盆に味噌汁や焼き魚を乗せて運んできた君沢は、晴海の身を案じている様子。

「まあそういう依頼もあるさ。暴力団を相手にしたこともあるしな」

「そうなんですか!」

 君沢はここに住み始めて日が浅い。彼が知らないことはまだまだあった。

「その時のことを考えりゃ、これくらい大したことねえよ。ま、俺一人で充分だな。なあ、旭雄……、旭雄?」

 晴海はまだ何か考え込んでいる様子の旭雄に声をかけた。

「ああ、すまん」

「まだ依頼人のことが気になんのか?」

「まあな……」

「まあ払いがいいから気にすることないですよ」

 広瀬はそう言って味噌汁に手を付けた。

「そうだな」

 そう言いつつ、旭雄はまだ少し気にしているようだった。



 指定された日、晴海はレンタカーで高速道路を走っていた。

 夕日が沈もうとしている空に目をやり、小さく呟く。

「七時に着きゃいいんだったな。まだ時間はあるし、パーキングエリアで晩飯食ってくか」

 今の所は尾行してくる車などもない。このままいくとかなり楽な仕事になりそうだった。

 パーキングエリアに入ると、晴海は助手席に置いていたスーツケースを手にフードコートへと向かった。それなりに広いそこでは数組のカップルや家族連れが食事をしている。

「そういや、連休も終わりだったな。旅行帰りかねえ」

 晴海は独りごちた。

 カウンターにはハンバーガーやサンドイッチなどの軽食から丼物、麺類まで幅広く揃っていた。

「醤油ラーメン一つ」

 適当な物を頼み、できるまで待つ。インスタントなのであろうそれはすぐにできあがり、手渡された。

 晴海は空いている席に座ると、うまくもまずくもないラーメンをすすった。一人で食べるラーメンというのはどうしてこうも味気ないのだろう。

 ――せめて旭雄連れてくれば良かったぜ。何だこの負け組気分……。

 そんなことを考えたが、男二人でラーメンというのも充分虚しい光景だと気付いた晴海は溜め息をついた。

 とはいえ、ふと辺りを見ると彼以外にも一人で食事をしている者がいた。数メートル先の席では白衣を着た女が長い黒髪を耳にかけ、天ぷら蕎麦をすすっている。

 白衣ということは医者だろうか。出張かもしれない。

 ほんの少しの親近感を覚えながら、ラーメンを食べ終えた晴海は返却口に器を返しに行った。

「さ、そろそろ行くか」

 晴海が出口に向かおうとした時、椅子が倒れる音がした。音のした方を振り向くと、カップルの女が倒れている。

「おい、大丈夫か!」

 男はその肩を掴むが、意識がないらしい。

「どうした!」

 晴海は放っておけず、二人に駆け寄った、

 周りの人間たちもざわめき始め、突然のことに驚いた子供は泣き出す。

「彼女が、突然倒れて……」

 男はパニック状態なのか、女の肩を掴んだまま揺さぶった。

「待ってください」

 そんな中、落ち着き払った声が響く。

「揺さぶってはいけません。私は医者です、見せてください」

 声の主は天ぷら蕎麦を食べていた白衣の女だった。

「は、はい!」

 男は彼女に女の体を委ねる。

 白衣の女はペンライトで女の瞳孔を調べていたが、思い出したように晴海の方を向いた。

「すみません、救急車を呼んでいただけますか?」

「おう!」

 晴海はジャージのポケットから携帯電話を取り出し、119番にかけた。医者はその間にも脈の確認などをしている。

 彼女のおかげで周りの客たちは落ち着きを取り戻し始めていた。泣いていた子供も安心したらしく、静かになっている。

 そして一通り調べ終えた彼女は男の方を向き、微笑んだ。

「貧血のようです、心配することはありませんよ。ただし、倒れた時に頭を打っている可能性があるので病院で検査をしてもらってください」

「はい、ありがとうございます!」

 男の礼の言葉に救急車のサイレンが重なる。すぐに救急隊員たちが担架を持って現れ、白衣の女と少し話をした後倒れた女を運んでいった。

「あの、ありがとうございました!」

 男は晴海にも礼を言うと、彼女に付き添っていった。

「大したことなくて良かったぜ」

 ほっと息をついた晴海に、白衣の女が歩み寄る。

「救急車を呼んでいただいて助かりました、一度に全てはできませんからね。私は藍澤時雨といいます」

 時雨はそう言うと左手を差し出した。

「ああ、いや。あんたのおかげでこっちも冷静になれたよ。俺は晴海天也だ」

 晴海はその手を握る。

 時雨はよく見るとなかなかの美人だった。切れ長の瞳は凛々しい印象を与え、細く背の高い体はモデルのようである。年は晴海と同じぐらいだろう。

 ――美人で医者、か。天は二物を与えずって言うけど、ありゃ嘘だな。

「ご旅行ですか?」

「いや、仕事だ。あんたは?」

「私も仕事です」

 やはり出張か何からしい。

 晴海は腕時計を見て「やべっ」と声を上げた。

「どうしました?」

「俺、もう行かねえと。じゃあな、時雨先生」

 早めに出発したため遅れはしないが、時間ギリギリだ。

 晴海は置いていたスーツケースを手に取ると、フードコートを飛び出した。



 それから一時間ほどが経ち、晴海は木々に囲まれたロッジの前で車を停めた。

「一番ロッジだからここだな、間に合って良かったぜ」

 ドアノブに手をかけると、依頼人の言っていた通り鍵は開いていた。

 窓に打ち付けられた板を見る限り使われていないようだが、電気は通っているらしくスイッチを押すと明かりがついた。

 晴海は椅子の埃を払うと腰を下ろした。

「後は相手が来るのを待つだけ、か」

 森の中の別荘は静かで、晴海の呼吸の音と腕時計の針が動く音しかしない。

 ――ここまで静かだと落ち着かねえな。

 トントンと床を踏み鳴らして気を紛らわせる。

 時計の針が七時を指した時、車のエンジン音が静寂を破った。

「お、来たか」

 車の音はロッジの前で止まり、足音がこちらに向かってくる。

 そして、ドアが開いた。

「あれ」

 先程会ったばかりの人物の登場に、晴海は間抜けな声を上げた。

「時雨先生じゃねえか」

 立ち上がった晴海と対峙したのは、パーキングエリアで握手をした藍澤時雨だった。

「やはり貴方でしたか」

 時雨は穏やかな笑みを湛えたまま、晴海との距離を詰める。

 白衣のポケット出された右手を、晴海はとっさの判断で後ろに下がって避けた。メスが晴海のいた空間を切り裂いた。

「おいおい、どういうことだ?」

 晴海は時雨をキッと睨み付けた。時雨は臆することなくくすくすと笑う。

「鈍い方ですね、私はあの時左手を出しましたよ。左手での握手は……」

 ――敵対の証。

「つまりお前は、これを奪いにきた敵ってことか」

 スーツケースを持ち上げると、時雨は頷いた。

「貴方を殺して奪えという依頼を受けました」

「医者じゃなかったのかよ」

「それは表の顔です。裏では殺し屋をしていましてね」

 時雨の手が横に滑り、晴海目掛けてメスが飛ぶ。

 晴海はそれを人差し指と中指で受け止めた。そして時雨に駆け寄り蹴りを放つ。

 時雨は体勢を低くし、それをかわした。

 互いに間合いを取ると、晴海は笑った。

「さすがだな、いい反射神経してるじゃねえか」

「それはどうも。貴方もなかなかの手練とお見受けしますが」

「そうかよ」

 互いに距離を詰め合う。晴海の手刀を時雨がかわし、数本のメスを放つ。避け切れないと判断した晴海はスーツケースを盾にした。メスが刺さるが、この感覚なら恐らく中身は無事だろう。

「壊れ物じゃねえんだ、許せ!」

 晴海はそのまま振り抜いた。

「うっ!」

 即頭部にスーツケースの一撃を喰らった時雨はよろける。

 そこまでは良かったのだが……。

「げっ!」

 衝撃でスーツケースが開き、百枚ほどの書類が宙を舞った。

「やべえっ!」

 慌てて集めようとした晴海はあることに気付いて立ち尽くす。

「全部、白紙……?」

 文字も図も書かれていない、ただの白い紙ばかりだった。

 ふらついた時雨も落ちた紙を拾い光にかざしたが、何の変哲もない紙だった。

「どういうことだよ……」

「これは偽物で、本物は貴方のお仲間が別の所に運んでいる、ということですか?」

「いや、確かにこれが依頼人から預かったもんだ」

 二人は舞い散る白紙の中で顔を見合わせた。

「どうやら俺たちは……」

「踊らされているようですね」



 数分前からロッジのドアを数センチ開け、中を覗いている男がいた。柄シャツにジーパンというラフな格好だが、それは紛れもなく依頼人だった。

「ちっ、気付きやがったか。潰し合ってもらおうと思ったのによお」

 男は舌打ちをすると、持っていたポリタンクの蓋を開けた。

「仕方ねえ、二人揃って焼け死んでもらうぜ」

 ポリタンクの中身――灯油がまかれ、火のついたライターが投げられた。



 中にいた二人はすぐに異変に気付いた。

「この匂い、灯油か!」

「早く出ましょう!」

 ドアに駆け寄った二人だが、ドアノブに手をかける前にそこは炎に包まれた。

「火の回りが早い! 他に出られるとこは……」

 慌てて後ろに下がった晴海はロッジ内を見回した。

 ドアのある壁以外の面に窓は三枚ある。板が打ち付けてあるが、それぐらいならば簡単に破れる。

 晴海は火の手から離れた窓に椅子を叩き付けた。

「よし、割れた!」

 ほっと息をついたが、火の手はドア以外からも上がっていた。早く逃げなければ危険だ。

「何箇所か火をつけたようですね。まったく、手の込んだことを……」

「とにかく、早く出るぞ!」

 晴海が時雨の方を振り返った時、小さな爆発が起こった。

「くっ!」

 飛んできた火の粉から、晴海は腕で顔をかばう。

 目を開けた時、衝撃で倒れた棚が二人の間で炎の壁となっていた。

「くそっ! なんとかこっちに来られねえか!」

 このままでは時雨が取り残される……。

 しかし、時雨は冷静な様子だった。

「難しいですね。貴方だけ逃げてください」

「見殺しにできっかよ!」

 晴海は腕が炎に炙られるのも気にせず、彼女に手を差し伸べる。

 時雨は首を横に振った。

「殺し屋としての依頼が反故になった今、私は医者です」

 その顔には何かを悟ったような静かな笑みが広がっていた。

「死を受け止めるのも医者の仕事のうちですよ。たとえ直面しているのが、自分であっても」

 晴海はギリっと奥歯を噛み締める。時雨はそんな彼を見つめた。

「そして生きられる者を生かすのが仕事です。行ってください、晴海さん!」

 炎はロッジ全体を飲み込もうとしていた。もう、手遅れなのだろう。

「く……っ」

 晴海は窓から外へ飛び出した。

 振り返ると、ロッジは炎を吹き上げ崩れ落ちるところだった。

「晴海」

 旭雄の声に、晴海ははっとした。

「そいつは……」

 呆然としている晴海の前に、旭雄は気絶している男を投げ捨てた。

 他でもない、依頼人だ。

「気になったから人留さんに調べてもらった。以前潰した暴力団の下っ端だ。覚えていないか?」

 晴海は知り合いの探偵の名前を聞き、旭雄の顔からもう一度倒れている男に目をやった。

 そうだ、この格好なら分かる。一年ほど前に立ち退き問題で壊滅させた暴力団、その事務所でこの男を見た覚えがあった。

 確かその後、リーダー格の男が殺し屋に命を奪われたという噂を聞いた気がする。

「その殺し屋が、時雨か」

 晴海は頭を抱えた。

「俺がもっと早くに気付いてたら……」

 旭雄は未だ炎が揺らめくロッジの残骸に目をやる。

「今更言っても、詮無きことだ」

「畜生……」

 遠くから、消防車のサイレンが聞こえてきた。



「晴海さん、晴海さん!」

「ん? ああ、どした?」

 翌日、居間でぼんやりとしていた晴海は君沢に呼ばれて我に返った。

「その腕、ちゃんと病院に行った方がいいですよ」

 捲り上げたジャージの袖から覗く右腕は赤くなっている。時雨に手を伸ばした時にできた火傷だ。

「別にこれくらい、大したことねえよ」

「駄目です!」

 君沢は珍しく声を荒らげた。

「何かあったらどうするんですか! 病院に行ってください!」

 大きな瞳に見つめられ、晴海は苦笑した。

「分かった分かった、行ってくるよ。今から行ったら夕飯までに帰れるだろうし」

 本当は病院に行くのは気が重かった。勿論怖いわけではない。医者を見たら、時雨のことを思い出してしまうからだ。

 ――それじゃあ逃げてるだけだ。駄目だな、俺は……。

 君沢に心配をかけるのも嫌で、晴海は財布をポケットにねじ込むと家を出た。

 歩いて十数分の所に総合病院がある。そこで見てもらおう。



 保険証を受付に出した晴海は、広いロビーのソファに腰をかけて自分の番を待っていた。

 忙しそうに目の前を通り過ぎていく医者たちに、やはり時雨の姿を重ねてしまう。

 時雨は殺し屋だった。きっといくつもの命を奪ってきたのだろう。

 しかし、と晴海は思う。

 同時に医者として、いくつもの命を救ってきたはずだ。

「何で、助けられなかったんだろうな、俺は……」

 ぎゅっと目をつぶると、炎の中で微笑む時雨の姿が蘇った。

「藍澤先生、205号室の患者さんのことなんですが……」

 看護師の女の声に、晴海は目を開けた。

「分かりました」

 返事と共に白衣の裾を翻して向かうのは、時雨だった。

「時雨!」

 晴海は立ち上がり、その肩を掴む。

「はい?」

 振り返った彼女は晴海を見ると「ああ」と声を上げ微笑んだ。

「生きてたのか?」

「ええ、奇跡的に少しの火傷で済みましたよ」

 そう言って、包帯の巻かれた左手を見せる。

「そうか……」

 晴海は安堵の気持ちで体から力が抜けていくのを感じた。

「藍澤先生?」

 看護師が怪訝そうな声を上げる。

「すみません、すぐに行きます」

 時雨は晴海に右手を差し出した。

「またお会いしましょう、晴海さん」

「お、おう」

 晴海はその手をおずおずと握る。

 「では」と去っていく時雨の背中を見つめ、晴海は笑った。

「なんか拍子抜けしちまったぜ、ははっ」

 そして、左手を強く握り締めた。
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テーマ:オリジナル小説 - ジャンル:小説・文学

  1. 2014/03/11(火) 22:58:43|
  2. 没小説
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